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15件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年2月14日読んでる「見た姿が味方のものか敵のものかを、もっぱら、一方は学び知っているが他方は知らないということによって、区別するという点だ。しかるに、親しいものとよそのものとを知と無知によって規定するのだとすれば、それは、まさに、学び知ることを愛するものだということにならないだろうか?」 (p.168) ソクラテスの言い分はわかる。 それでも今を生きる自分にとって、それを実行することはなかなか難しいと感じる。 今は世界の人々、世界の情報と瞬時につながれる。 だからこそ、「身の回り」と「世界のすべて」との内混ぜにより錯覚が生じている。 「世界のすべて」は手に負えない、その気持ちが「身の回り」にも反映される。 つまり「無知」というもの(仕方なさ)が世界との過剰接続による副作用として自ずと肯定化され、自身の勤める会社においても「他人行儀」を罷り通している自分がいる。 「会社」そのものが「親しいもの」となっていた時代が高度成長期であったとすれば、 今の自分にとって「会社」という枠組みは ただただ「仕方のないもの」として立ちはだかり、 自分個人にとって接しやすい人物のみが 「親しいもの」となっているのではないか。 国民皆画面、通勤電車ももはや完成された「よそのもの」であるという気がする。 「学ぶ」ことが、自分を知り自分を愛することにとどまっていないか。 ソクラテスの言葉から、「学ぶ」ことの本来の目的を見つめ直さねばと思う。 まずは、いたずらにこちらに手を伸ばしてくる 「世界系」の情報群の誘惑に逆らうことから。

ジクロロ@jirowcrew2026年2月7日読んでる(アデイマントス) そういうわけですから、どうかわれわれのために、ただ〈正義〉は〈不正〉にまさるということを言葉のうえで示すだけでなく、それぞれは、神々と人間に気づかれる気づかれないにかかわりなく、それ自体としてそれ自身の力だけで、その所有者にどのようなはたらきを及ぼすがゆえに、一方は善であり、他方は悪であるのかを示してください。 (p.141) ソクラテスに対する、このアデイマントスの問いかけは、対話による「導き」というよりも、純粋な「祈り」に近い気がする。 「〈正しいこと〉とは他人の善、強者の利益であるが、〈不正なこと〉とは自分にとって為になり得になることであり、弱い者にとっては不利益になることだ。」 (p.140) アデイマントスはそれが現実であることをわかっている。だからこそ、言葉による「救い」が必要となる。 アデイマントスが知りたいのは、いわゆる心の無力さという現実を受け入れた上での心の「あり方」。 「心から知りたい」というその心、それが「祈り」なのかもしれない。
ジクロロ@jirowcrew2026年2月5日読んでる(ソクラテス) ところで、罰の最大なるものは何かといえば、もし自分が支配することを拒んだ場合、自分より劣った人間に支配されるということだ。立派な人物たちが支配者となるときには、こういう罰がこわいからこそ、自分が支配者になるのだとぼくは思う。彼らはそのとき、支配することを何か善いことであると考えたり、その地位にあって善い目にあうことを期待したりして、支配に赴くわけではないのだ。支配をゆだねてもよいような、自分以上にすぐれた人たちも、あるいは自分と同等の人たちさえも見出せないために、万やむをえぬことと考えてそうするのだ。 (p.85) 選挙前に知っておきたかった、知っておいて欲しかった言葉。 ここに描かれた覚悟というものはあまりにも眩しすぎる。 「万やむをえぬ」、これを本当の「覚悟」というのだろう。
RIYO BOOKS@riyo_books2021年8月7日読み終わった哲学的問答法というのはわれわれにとって、もろもろの学問の上に、いわば最後の仕上げとなる冠石のように置かれているのであって、もはや他の学問をこれよりも上に置くことは許されず、習得すべき学問についての論究はすでにこれをもって完結したと、こう君には思われないかね?








