DN/HP "ガルヴェイアスの犬" 2026年2月14日

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2026年2月14日
ガルヴェイアスの犬
ガルヴェイアスの犬
ジョゼ・ルイス・ペイショット,
木下眞穂
「みんなの目に見える物にはその形の上に見えない層がいくつも重なっているんだ。」 みんなが共有している目に見える物、事実、世界には、それを見ている人の数だけ見えない層、真実がある。物語の中心となる人物を変えながら、その見えない層、それぞれの真実を描き出していく。あるものの人生が語られれば、また別のものの人生も語りはじめざるを得ない。それは繋がり重なりあったひとつの世界の話で、世界とはそうやって成り立っているから。 ある物語では「脇役」でしかなかった人物が中心に据えられその真実が語られれば、目に見える世界、そこで起こる出来事の見え方も変わってくるし、意外な事実も浮かび上がってくる。幾つもの物語が語り継がれていけば、折重なった見えない層はひとつになり、そこには普段はみること出来ない世界が現れる。これはそんな風に世界を描いた小説。そして、そんな世界の有り様、成り立ちを描けるのが小説。ということなのだと思っている。 「なるほど、小説というのはそうやって全てを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」 そんなことを思い始めたのは保坂和志さんの『残響』という小説だった。さらに滝口悠生さんの『死んでいない者』を読んでその思いが強くなり、上に引いた同じく滝口さんの『長い一日』にある一文で完全に納得したのだった。その三冊は大好きで大切に思っている小説なのだけれど、この一冊もそこに加えて、大切に思い返したり、考えたり、読み返したり話したりしたいな、と思ったのだった。 読み終わった後にそんなことを考えてみれば、この本を手に取るきっかけにもなった、滝口さんの紹介文にも、人選含めて納得していた。ただ、わたしはこの小説には滝口さんのいうようなに「朗らか」さは感じていなくて。「幾つもの悲しみや絶望」、過ちや死、あるいは喜びであってもそれらが思い出され、語られる後ろには、なにかを思い出すときにはいつも離れずについてくる哀しみが常に流れているように感じていた。いや、それでも、それらを「言葉で書き換えて読んだり話したりできる」小説という形にする、それを読むことが出来るということにはこの小説のラストのように、なにかを促す「希望」があると思っているのだけど。 ああ、そう思うと、はじめにこの小説に出会ったときに手に取っていれば、そのときに必要だった希望も感じられたのでは、と思って、また少し哀しくもなっている。これはそんなときにも読み返したい小説。 🐕👬 「そんな犬たちに気づいた人間は誰もいなかったが、それは秘密を打ち明ける言葉を犬たちが持たないからでも、犬たちへの注意が人の側に足りないからでもなかった。こうした行き違いはそれぞれが持つ感覚の違いゆえに起こるのだ。人間は、たとえどれほどの善人であろうと、かほど巨大な真実を受け止め理解できる力を持ち合わせていないのだ。  それでも、理解がなくとも、生き続けたのだ」
ガルヴェイアスの犬
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