綾鷹
@ayataka
2026年2月18日
感情労働の未来
恩蔵絢子
◾️脳の進化と感情労働
・私たちは自分のいる場所にあるものは全て意識できていて、その中で自分が全ての行動を意図的に選んでいるように感じている。しかし実際は、自分の予測に合ったものでなければほとんど意識されず、「感情の評価理論」などで意識的に感情を動かすことはできると言われているものの、第1章で書いたように、ほとんどのことは感情が気づかぬうちにやっていて、無意識の支配が絶大なのである。私たちが意識できる領域はとても限られている。本当に意識にのぼるのはごくわずかであり、これを「知覚のオーバーフロー(perceptual overlow)」という。
・勉強すればするほど、課題に熟達すればするほど、脳はたくさん働くのかと思いきや、逆なのである。熟達者は非常に省エネで、新人ほど本当に苦労してその課題の中の全てのことに意識的に、脳領域全てを使って対処しようとする。意識は、意外なこと、自分が経験したことがないことが起こって、注意が必要になった時にだけ灯る電灯のようなもので、自分がどう行動したらいいかを明晰に考えさせるために存在するものなのだと思われる。
つまり意識は、自分が必要としているけれどもうまく自分がコントロールできない事態専用なのにもかかわらず、私たちは時にこの意識こそが全てだと勘違いする。
・パソコンやスマートフォンの登場で24時間、一度も顔を合わせたことがない人とすらもつながっていられるようになったことで、無制限に「もっともっと」と欲しがることが可能な環境ができてしまった。人々の注意を得ることが経済的価値になるという「アテンション・エコノミー」を予言したアメリカの認知心理学者ハーバート・サイモンは、注意とは自分の動機に合わせて思考の範囲を狭めるもの(botteneck of human thought)と定義している。注目するというのは、他の可能性を排除して、それにばかり向かっていく力を持たせるものでもある。
・何か自分の興味のあることをがんばって、それで人から承認されることはうれしいことだが、承認自体が目的になることはあやういことだ。「一度尺度が目的になると、それはもはや良い尺度とは言えなくなる」という法則は「グッドハートの法則(Goodharts law)」と呼ばれる。イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートが、1975年にイギリスの金融政策に関する論文で提唱した法則である。今に当てはめると、例えばいろいろなことを知るのが楽しくて、勉強に打ち込んでいると偏差値という尺度も上がっていくかもしれないが、偏差値を上げるための勉強になってしまうと、それはいいことではなくなってしまうというのがそうである。勉強が嫌いになってしまうかもしれず、本来の目的が失われた、狭いものになってしまうからである。会社でも例えば、良い商品が作りたいと思ってその商品が売れたりすると、売上という尺度だけが重要視され、売れる商品だけが作られて良い商品から離れていってしまう、という場合がそうである。
・一人ひとりの他者を認識し、他者の欲望、倉念、感情、意図を読み、その人の性質や行動を理解する。それぞれの人の行動パターンについての予測が利くようになる。多くの他者のモデルが頭の中にできるようになる。そうして人の理解が深まるのに伴い、いろいろな人と比べることで自分自身がどういう人間かということも理解していく。他者への配慮を身につけ、なり
たい自分という理想も持つようになる。そのような社会性に関わる脳部位(側頭頭頂接合部や上側頭溝、前頭連合野など)は、感覚野が生後すぐに変化のピークを迎えるのに対して、思春期から青年期(大体10歳から25歳)に劇的な変化をする。
・大規模言話モデルは人間が生み出す最も高沢なものの一つ(すなわち言語)から生まれた子どもである。世界に強大な大脳新皮質が生まれてしまって、私たちはこれからの未来、どのような方向へ進んで行きたいのか、AIに指示したり、あるいは善悪という価値を与えたりする大脳辺縁系としてより強大になることを、私たちは今求められているのだと思う。この二つがうまく付き合う方法を発見することは、世界に新たな社会脳を誕生させることでもあるのかもしれない。
・人間の脳はなんのためにこれほど大きくなったのかという疑問に対して、イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは、「社会脳仮説(social brain hypotheis)」を提案した。この「脳の大きさ」と「グループのサイズ」との相関関係から推定すると、人間の脳の大きさでは、人間のグループサイズは150、すなわち人間が普段から互いに気にかけあえる関係性の数は150人だそうである。この数は「ダンバー数」と呼ばれている。
すなわち、人間の脳がこれだけ大きく進化したのは、他者のことを考えるためであり、人間の知性とは人付き合いのために進化したものであるというのが社会脳仮説の主張である。
・実は、私たちは全く同じ気持ちにならなくても、他人の精神的な状態を推測できる。自分の今の心の状態と、他人の今の心の状態は違うものだと理解していて、自分と違う相手の心の状態を推測できる。「あの人は今このような状態なのではないかな」「こう思っているのではないかな」と推定する。他人の複雑な気持ちは直接知ることはできず、顔色や態度や行動、話の内容や環境、今までのその人との関わりの記憶などから、なんとなく感じたり、推測したりするしかないものである。だからこそ、科学者は「私たちは他者の心を持っている」と言わずに「私たちは他者の「心の理論』を持っている」と表現する。心の理論とは、他者の心についての推測のことである。
・人間に一番関心を持ち、「自分」と「他人」を区別して、その中で苦しみなどいろいろな感情を感じ、時に動けなくなるというのが人間の心の理論の発達には必要なのであって、そのような関心は、人工知能の中にはなさそうなのである。人間の「心」は、「mind」よりも広いものなのだと私は思う。
・言葉にならないもの(感覚情報)から生まれた言葉が人間の言葉で、言葉から生まれた言葉が人工知能の言葉なのである。しかし、人間の言葉は、私たちの知覚したこと、感じたことが全て含まれそれを凝縮したものだから、人間の言葉だけを膨大に学習したら、ChatCPT もその中から人間の心をある程度学習できる。しかしそこで「心」と言うのは、一度言葉に表され、固定されたものから推しはかられるものであって、全てが意識の上で展開されているような世界でのお話なのである。
・人間には身体があり、複数の種類の感覚器から膨大な情報を受け取り、生命維持や価値判断のシステムを備え、情動的共感を持ち、言葉にできないことを人間と人間の間で高速にやりとりしている。そのような言語以前の仕組みがあるからこそ、会話の中で一つの言葉の意味をある程度、的確に捉え、人工知能のような文脈の逸脱をしないですんでいるのかもしれない。私は、ここに現代を象徴する問題が現れているように思う。
今私たちは、インターネット、SNSの登場などで、リアルに顔と顔を合わせることなく、言葉だけで他者と付き合う機会が膨大になっている。自分たちの複雑な心を、身体と切り離し、目に見え耳に聞こえる形になった言葉だけから探るという苦労をしている。人間は大規模言語モデルに近づいているのかもしれない。私たちの人の心の読み方には今、変化が起こりつつあるのではないか?
◾️SNSは感情労働の最前線?
・新型コロナウイルスの夢延で、私たちはマスクをして、3年以上顔の半分を隠して過ごしていた。それまでは、リアルで会話する二人の間の言葉の意味は、ある種、顔色や表情によって、初めて確定するところがあった。顔を見ればパッと瞬時に感情が伝わるという、情動的共感のメカニズムが私たちには備わっているけれども、そうして人の気持ちを読むのに無意識のところで頼りにしていた顔色や表情が、マスクにより頼りにできなくなった。命を守るためだからマスクをするほうがいいと、人の気持ちは後回しにならざるを得なかったのである。人と思うようにつながれなかったり、人の気持ちが思うように読めなかったりすることで、人とのつながりで生きる楽しみを得ていた人たちは、気持ちが落ち込んで、健康状態が悪くなり、死を考えることすらあった。気持ちが大切にされないと、生命に関わることがあるのである(例えば、20代女性で「新型コロナウイルスが流行する前と比較して、孤独を感じることが多くなった」という回答割合は65%となり、若い女性の自殺者数がコロナ禍で増加した(厚生労働省「令和4年版自殺対策白書」第2章第2節「新型コロナウイルス感染症の感染拡大下の自殺の動向」。しかしそのような目に見えない関係性は考慮に入れられず、気持ちよりも命が大切だ、と長い間、私たちの感情が後回しにされてきた結果、私たちは人とのコミュニケーションに戸惑うようになっている。
例えば、友達はいいけれど、知らない人を見るとただ怖いと感じる。龍車で少しでも咳をする人からは離れたいと感じる。不用意に話しかけることなどできなくなった。また、情動的共感を介さずにテキストだけで、必要なやりとりだけをすることが増えるにつれ、「それってあなたの感想ですよね」と、個人的で小さな感想を言うことを責めるような言葉が小学生の間でも流行り、「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」という言葉に代表されるように、「効率」が重視され、小さな失敗、面倒なこと、ダサいこと、一人の感想にすぎないことは排除されるようになった。ホックシールドの言う深層演技、また、目に見えない人の気持ちを見るという感情労働と、効率は相性が悪いものである。「いいね」がたくさんつくことや目立つ成果だけが重要視されている。私たちはまるで私たちが存在する意味を立証しなければ存在してはいけないかのように扱われることが多くなった。このような風潮に、本当はみんな息苦しさを感じているはずである。小さな感想を軽視することは、自分の首を絞めることだと私は思う。
・「あなたを見ています」「ちゃんと聞いています」ということを示すため、視線を合わせる、声を大きくするというように、非言語コミュニケーションの部分を明示的にするように、私たちはコントロールをしている。Noomだけではない。TiTokでもYouTube でも、テロップを入れるなど、わかりやすいプレゼンでなければ相手の注意を引きつけることはできない。グローバルな社会で、誰とでもつながれる中で、小さな自分に気づいてもらうために、もっとはっきりしなければならないと私たちは思い込むようになった。全てを明示的にするように求められるようになった今、私たちは、自らもわかりやすさを追い求めるようになってきている。
「AならばB」というように明快な言い回しで自分を語る、言いにくいことは存在しないことにして、意識の世界だけで生きる、今まで体験したことがない時代になったのだ。
言語と身体をかつてなく切り離した現代人は、見えにくい人の心を理解するという方向で苦労する代わりに、見えにくい心を誰からも見えやすいように加工するという苦労を選んでいるのかもしれない。
・実際インターネットに依存している若者の脳の中では特に、「欲しい」の回路がまわり、街動を抑えて今やるべきことに集中する回路の働きが落ちているという。すなわち、インターネットはあまりにも強すぎる刺激であり、そもそも衝動のコントロールが苦手な若者の脳はそちらに向かいやすく、そればかりを求めて、小さな報酬を無視するようになるので、この時期に発達させるべき回路を発達させられなくなる。自分のやりたいことを見つけ、それを育てるためには、一つの強すぎる刺数だけを求めていては難しく、その瞬間にはどんなことに役に立つのかわからないような現実的な宿題なども実際にやってみる必要がある。しかし、そんな小さく、わしいことよりも、強い刺潡のあるインターネットを求めてしまい、衝動をコントロールする訓練がいっそうできなくなってしまうのである。
・アメリカだけでなくヨーロッパでも10歳から18歳の子どもは一日7・5時間オンラインで過こしている。つまり、オンラインとオフラインの世界は重なり合っており、子どもたちは仲間とのつながりを深めるためだったり、自己表現や自己の確立のためだったり、他者との比較をして社会の規範を知るためだったり、と学校などのオフラインの生活の助けになるようにオンラインを使っているという。それはオンラインには学びがたくさんあるということだが、いじめなどが激化してしまうのは、この時期の子どもたちが高次認知機能と感情システムの連携が大人よりもずっとうまくいかない脳を持つ中で、自分と年齢の近い仲間たちを重んじ、同じく冒険的である仲間たちから善/悪、格好の良いこと/悪いことなどを学ぼうとし、仲間たちからの称賛が彼ら・彼女らの強い報酬になることが一つの重要な要因であると考えられている。
仲間たちから認められたいという気持ちが強く、SNS上ではどこまでもそれが過激化し得て、産に上ったり、竈車の上に飛び乗ったりという無理な挑戦をしてその動画を上げたり、自分のプライベートな部分をどんどん開示してしまったりすることがあるのである。
・SNSは誰にでも開かれていて、どんなことでも表現できる個人のメディアであり、人間が感情を創造的に爆発させられる場所に思われるが、それぞれの人の小さなやりたいことが出ら、人間の豊かな感情が溢れ出している場所というよりは、承認欲求から刺激の強いコンテンツが生まれる場所になりがちなようである。まるでグッドハートの法則(一度足度が目的になると、その尺度はもう良い尺度とは言えなくなる)のように、「いいね」を集めるという一つの目的に向かってみんなが競争しており、創造的な世界が構築されるようになったというより、自分を苦しめることにつながっている。社会脳の確立の時期にある子どもたちは、逆に自分にとって大事なことにじっくり取り組めなくなり、不安を高めている場合も多いのである。
それゆえに、法律で禁止する国が出てくるなど、利用の時間を区切り、制限することで、現実の時間を増やし、人間の生活の全体性を同復させることが必要とされてきている。
・先に若者たちが外見にフォーカスするようになっていると専門家たちが問題視していると述べた。
1997年、アメリカの心理学者バーバラ・フレドリクソンとトミ・アン・ロバーツは他者からの評価を内在化して、自己の容姿にとらわれるようになることを「自己のモノ化(selfobjectification)」と呼んだ。例えば、ある女性をその人の人格を見るのではなく、モノとして見るような発言、「顔が小さいね」「スタイルがいいね」「胸が大きいね」などパーツだけを重要視する発言に接したり、写真としても、スタイル抜群のセクシーな女性しか雑誌の中にいなかったりすることは多く、そのように他人が女性の外見しか気にせず、まるでモノのように見てくることで、女性たちが「自分で自分をモノのように扱うようになっていくこと」を指摘したのだ。そしてこの自己のモノ化は、自尊心の低下、人生の満足度の低下を引き起こし、自分の体に対する羞恥心や不安感から、摂食障害、鬱病、性機能障害にもつながることがわかってきた。
「スタイルが良くなければいけない」などと思い込んで、自分の体をその他人から与えられた理想に合わせようとコントロールしていく時に、うまくいかずに自言を喪失したり、行きすぎて摂食障害を患ってしまったりするのである。興味深いことに、自分をモノ化する傾向の高い女性は、自分の実際の身体の感覚に疎くなることが示されている。
ファッション(見た目)のほうが寒さ(自分の身体が感じていること)よりも大事で、自分の身体からの情報を積極的に無視したり、自然と身体からの情報に疎くなったりすることが示唆された。つまり自分で感じることよりも他人からどう見えるかを大事にすると、自分が「ヒト」ではなく「モノ」であるかのように、「感じる」ことが少なくなってしまうのだ。
・昔は雑誌やテレビなどを参照していたのだが、今はSNSがそれらの代わりとなった。そこではモデル、セレブリティという見知らぬ他者の姿をただ見かけるだけではなく、友人、知人のアップした姿を目撃するようになった。比較する他者の数が膨大になったのである。また、一方的に見るだけではなく、自分の写真もあげることになり、さらにはそれについて他者からさまざまなコメントがつくようになった。比較の激化である。
近しい友人や、少し距離のある仲間たちと自分を毎日比べていることのほうが、モデルやセレブリティたちと比べることよりも自分の体に対する不満を高めることが明らかになっている。
モデルやセレブリティの着ているドレスは高すぎて、自分には手が届かなかったり、スタイルも自分とはかけ離れていたりして非現実的だが、身近な人の素敵な姿は、我々にとって達成可能であるために、比較対象として、遠い人より身近な人から我々は大きな影響を受けるという。
私たちは自己のモノ化が圧倒的に進む条件に生きている。
・この研究で特に面白いのは、顔を出さないこと、顔を意図的にぼかすことは、その人の人格を剥ぎ取ることだと理解されていることだ。特に英語圏の研究では、顔を出さずに身体だけに注目することが代表的なモノ化の例になっている。日本人が自ら顔にスタンプを貼るなど顔を消して写真をアップしたり、友達以外の他人には自分とわからないほどに顔を加工したりしていることは、自分を守る手段でありながら、英語圏の人々よりも、自分を人でなくモノとして見ているからなのかもしれない。確かに日本は、Twitter(調査時。現在のX)の使い方を見ても、匿名で使っている人が多く・日常で人格を消す傾向が他の国に比べて高いと言える。
感情が企業の商品となって、やりとりされることが従来の感情労働の問題だったが、SNS
の登場により私たちは自分で自分をモノにして、やりとりしてしまっているのである。
・今、みなさんは、困ったことがあった時にどれくらい人に助けを求めようとするだろうか?
日本人など東アジアの人々は、西洋の人々に比べて、助けを求めることに対して抵抗を感じる人が多いという。確かに、私自身、「こんなことを質問していいのかな」「人に迷惑をかけるのではないかな」「これが欲しいけれど、それを口にしたら拒絶されるのではないかな」「バカだと思われるのではないかな」と感じて、自分にとって必要なことを言わないでいることがたくさんある。
社会的支援とは、困った時に直接的に助けてもらったり、感情的に寄り添ってもらったりして、「自分は他人から愛され、価値あるものとされ、互恵的な関係性の一部になっていると感じられること」をいう。それは私たちにとってもちろん必要なものである。例えば、痛みを感じている時に、頼している人が手をつないで寄り添ってくれていると、脳の中で痛みを感じている時に働く部位の反応が弱まる。そして社会的支換があると感じられていると、病気などからの回復も早くなることが知られている。テイ・ショウホウら一橋大学と名古屋大学の共同研究によると、生きていくためには必要なものなのに、私たち東アジアの人々が助けをあまり求められないのは、実は、他者が困っている時にも、あまり哀れみを感じないからであるという。東アジアは「集団」の文化で、自分と他者を西洋の人々よりもつながった存在であると見ており、自分自身の目標よりも、集団の目標のほうを重んじる傾向がある。そのような文化ではどうしても集団に対する責任感が強くなり、自分が自分の目的を達成するために「助けて」と口にするのは、集団にとって「迷惑になる」可能性があるから抵抗を感じ、他者が困っている時も、それは集団に対してその人がなんらかの悪いことをしたからだろうと類推するから、同情が薄くなるのだという。逆に、アメリ
力などの「個」の文化では、自分と他者は違う存在というのが前提であり、自分の目的で行動するので、それが失敗した時には、「悪いことをしたから」ではなくて、「そもそもうまくいくかどうかはわからないから」で、他人が失敗した時にも自分もそうなのだからと助ける傾向になるという。
他人と自分を切り離さない人のほうが、困った時に他人に冷たくなりやすいというのは衝撃ではないか?そして私たちは、集団に対する責任感から、集団に合わせる思考法をしていて、「人の迷惑になる」「私の要求は人に拒絶される」のが当然という見積もりをしているという。
私たちは、人に迷惑をかけないようにと常に他者を気遣い、自分よりも集団を優先することで、「感情労働をして疲れる」と言っているが、それで人に優しくなっているというよりも、互いに「助けない」という、孤立の道を歩んでいるのかもしれないのである。だとすればその「労働」の意味はあるのだろうか?私たちは感情を動かし、やりたいことを実現できるように努力し、他人のやりたいことも叶えるよう手伝い、今より良く生きられる、今より良い社会を作り上げるというのではなく、ただなんとなく今の社会に合わせて、自分たちを抑え、自分たちの価値がわからなくなるという方向で感情を使っているのである。
実際に私たちの自己肯定感は下がっている。日本の特に若者、小中高生の自殺者数は2024年で529人、過去最多となったという。わかりやすさを求めて全てを明示的にするように力を使い、他人と自分を頻繁に比較し、「迷惑にならないように」と規律的に動いて、安心して暮らせる場所を作っているつもりで、実際には安心して存在することができなくなっている。
私たちは自分の弱さをもう少し見せ合って、かけがえのなさを取り戻さなければならないのではないか?
人の心を理解することがうまくできるようになる前に、情報過多のSNS時代を生きる私たちは、見えにくいものを見えやすく加工するという力の使い方をしている。それは推し活で見るように創造力の一つの発揮ではあるのだが、自分で「感じる」という心の動きはおろそかにされているようである。現代特有の見直されるべき感情労働とは、膨大な他者の中で一人の人のかけがえのなさを忘れる方向に努力していることなのかもしれない。