綾鷹
@ayataka
2026年2月18日
感情労働の未来
恩蔵絢子
◾️未来の感情労働
・共感をした上で切り離す、そして表層だけではないものを見る、そんな、本当に人を理解する感情労働とはどういうもので、どうしたら可能なのだろうか?
今までにいくつかヒントは出てきていた。他者と自分を切り離す良い感情労働としては、例えば異文化の人に慣れない見た目の料理を出す研究で見たように、(1)人に優しくできなくなったら、自分の抱えている荷物を下ろす。またインストルメンタル・コンバージェンスの例で見たように、(2)自分と感じ方や考え方が違う人と関わる際には、食事など根本的な要求については一緒にすることができ、それが満たされればとりあえず十分であると考える。また依存関係の例で見たように、(3)自分から「待つ」という痛みを取る。「好き」は「欲しい」に圧倒されて消えていくので、強い風で小さな火が消えないように両手で守るように、自分と相手の間に空間を作る。
そしてトランザクティブ・メモリーの例で見たように、(4)相手の良いところ(自分に直接利益となるところ)だけではなくて、悪いところ(自分の不利益になるところ)も含めて、全人格で関わる。そして日本人の癖として見たように、(5)相手や集団を大事にしすぎて、自分の「助けて」という気持ちを消さないようにする、などが考えられるだろう。
基本的には、「こうでなくてはならない」ということで他人と関わるのではなく、もっとりラックスして、自分と他人に余裕を与える。自分と違う相手に本当に興味を持つということになるのだろう。
・どんな課題にも対応できる流用的知性(1Q)だけでは人間の知性は説明し尽くせず、っひとつの課題に特定的に驚くべき力を発揮する人たちがいるとして、1983年アメリカの心理学者ハワード・ガードナーは「多重知能理論」を発表した。これによれば少なくとも人間には8種類の異なる知能があるという。(1)言語的知能、(2)論理・数学的知能、(3)空間的知能、(4)身体・運動感覚的知能、(5)音楽的知能、(6)博物的知能、加えて(7)対人的知能と(8)内省的知能である。
・感情の欠点は、感情は正解のないところでも、私たちに意思決定をさせてくれる能力であり、言い方を変えれば、差がないところに差をつける力、理由なく一方を好ませるものであって、すなわち偏見を生む力にもなっている。また、初めてのことに出合って感情のシステムが大きく動く(例えば強い恐怖を感じる)ことで、記憶のシステムに刺澈が行き、絶対に忘れられない記憶を形成することも述べた。このシステムのおかげで次に似たような恐怖には出合わないように行動を変えることができるのだが、これは、少しでも似た状況になると体が硬直してしまう、危険の全くないところでも危険を感じ、何もかもが怖くなるというPTSDの要因でもある。もちろんこれは感情の矢点である。
さらに感情は他者との関係性で問題になるところがある。情動的共感で私たちは他者としっかり結びつくことができるのだが、そのせいで切り離しが難しくなり、自分の延長として他者を提えモノとして扱ってしまったり、虐待をしてしまったり、また自分をモノとして扱うという問題が生じる。
同調圧力もこの仕組みと関係する。この人が本当に大切なことを言っているのかどうか、私たちは自分で考えずに、なんとなくの雰囲気だけで肩じてしまうことがある。そして同じ感情を感じていない人のことを付き合いにくいと感じたり、「空気が読めない人」と言って仲間はずれにしたりすることがある。脳が典型的な発達とは違った発達をしていたり、違う文化的背景で育ったりした人が、均一を前提とした社会に入ると、感情が伝わるのに時間がかかることがある。感情は伝染することで、伝わる速さを手がかりに、仲間とそうでない人を分ける圧力になってしまうのだ。
感情は我々の根本なのだが、大きな力であるがゆえに、長所が点にあっという間に変わる。
感情にはどうしても手入れが必要になる。ここで鍵となるのが「気づき」なのである。
・人を本当に理解するのには、物事の因果関係を簡単に考えてはいけない。「そうではないかもしれないな」と判断を保留しなくてはならない。感情は常に動かしていなければならない。
その動いている感情を掘むにとどめ、型に入れないことが感情的知性なのである。
・自分の気持ちに気づきうまく表現することによってポジティブな感情を増大させて、ネガティブな感情を減少させることができる。
「感情表現(emotional expressivity)」は感情と気づきがセットになった一つの感情的知性である。
「表現」というのは面白い技術だ。表層演技のように「抑制」ばかりをするのではなく、自分が本当に今感じていることはどういうことなのかに気がついて、表現することが大事なのである。
・何か条件が変わったら、こだわらずに違うプランを考えられる力を「認知的柔軟性(cognitive Rexiblity)」と呼ぶ。感情表現だけでなく、この力によっても、人生の中に喜びを増やし、悲しみを減らすことができるわけである。
・ここで、人間の能力を私なりに整理してみよう。
大脳新皮質には大きく分けて3つのネットワークがある。一つ目は、言語能力やIQ、すなわち「頭がいい」と通常言われるような能力、テキパキと物事をなんでもこなせ、大きな短期記憶(今この場で何か課題を実行するために、必要な情報を集め、一時的に蓄えておく力、容量)を持ち、人と長く雑談している時も自分が何を言いたかったのか決して見失わないような能力を担当するシステムで、「セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(centralexecutive network)」と呼ば
はいがいそくぜんとうぜんや
れている。セントラル・エグゼクティブ・ネットワークは、背外側前頭野や後頭頂皮質という大脳新皮質の外側にある領域が主に形成している。
その他に、「デフォルト・モード・ネットワーク」と、「サリエンス・ネットワーク (saliencenetwork)」が存在する。デフォルト・モード・ネットワークは、セントラル・エグゼクティブ・ネットワークとは正反対の働きをしていて、人間が何にも集中しておらず、本当にリラックスしている時に活動が高まる脳領域である。内能頭前野や後説帯状という、大脳新皮質の内側に位置する領域からなっている。
デフォルト・モード・ネットワークは、集中とは正反対で、白昼夢のように、心があちこち術衛っている状態を作り出し、ぼーっとああでもない、こうでもない、とセントラル・エグゼクティブ・ネットワークを駆使していた時に体験したことを整理している脳部位である。シャワーを浴びたり、散歩をしたり、私たちが休憩していて特別に何にも集中していないからこそ、記憶の整理はできるのであり、こうして知らないうちに体験を整理してくれることで、私たちは再び効率的に動けるようになるのである。
そしてサリエンス・ネットワークは、セントラル・エグゼクティブ・ネットワークとデフォルト・モード・ネットワークの切り替えをしている脳領域である。何か注目すべきことが起こった時に、ぼんやりしていないでセントラル・エグゼクティブ・ネットワークを働かせろと命令してくるシステムだ。島皮質や前部帯状回という、痛みなどの強い感情の伝染を司っていた回路で、皆戒号を送る回路でもある。不安を感じやすく、この部位がいつも過剰に働き続けている人は、安らげないためデフォルト・モード・ネットワークをうまく働かせることができず、結局セントラル・エグゼクティブ・ネットワークの働きも落ちて、柔軟に物事を考えることが苦手になることが知られている。
サリエンス・ネットワークの中の島皮質は特に面白い領域である。痛みを感じている時に働く脳部位だと言ったが、芸術作品など理由もわからず何かを私たちが美しいと感じている時に働く脳部位でもあり、身体や内臓の感覚をまとめあげ、感じる時、島皮質が活動すると言われている。身体で起こっていることの自覚をする部位が島皮質なのだ。「失感情症(alexithymia)」といって、自分の感情を認識できず、言語化することが苦手な人たちがいる。この人たちは、この島皮質と展体の体積が、小さくなっていることが知られている。
仏教の瞑想のトレーニングが、私たちの内なる感覚や、外の世界の出来事に気づきを高める「マインドフルネス(mindfulness)」として広まっている。過剰に物事に反応せず、良い悪いとすぐに決めつけず、判断を保留にして気づくにとどめ、その観察力に基づいて行動をする「マインドフル」な人たちは、失感情症の人たちとは逆で、島皮質と扁桃体の体積が大きいことがわかっている。
私たちは、IQばかりを気にしてきた時間が長かったが、やりたいと思うことを適切に実行できることの背景には、私たちの知らないところで行われているデフォルト・モード・ネットワークの処理と、深い身体からの知らせに気づくサリエンス・ネットワークの処理がある。
外から龍力として目につきやすい、光り輝く部分ばかりを私たちは大事にするが、目に見えにくいところで行われている処理が光の部分を支えているのであり、時に私たちはその無意識の処理に目を向けなくてはならないのだ。目に見えにくい自分の欲求、他人の欲求、そして人間だけでなく、人間が支えられている環境の中の複雑すぎるつながりに少しずつ気づいていくことが、自分自身を取り戻す、人を理解する感情労働であると言える。
・意識されている物事の中で、「こうなったのはこのせいだ」と私たちは理由を見つけようとするが、私たちには、どうにもコントロールの及ばない、無意識というものがあり、せいぜい
そのうちの少しに気づくことができるだけなのかもしれない、という視点を持つことは大切だ。
全てがコントロールできるわけではないのだ。
言語化されたものだけをみるのではなく、コントロールできないものの動きを感じてみる。
見かけの因果関係に騙されずに、感情的知性を使って、見えない心の広がりを感じてみる。
グッドハートの法則のように、「偏差値」「売上」「どれだけ「いいね」がつくか」というわかりやすい尺度に自分をあてはめず、本当にやりたいことをやってみる。自分の小さな感想を表現してみる。見た目だけを重要視しないで、感じていることを掴む努力をする。自分と同じと考えないで他人に興味を持つ。他人の小さな「好き」を守れるように、風よけの手を差し出す。このような感情の働かせ方を通して、社会的な正解・不正解に従って、みんながみんな同じ人間にならねばならないかのような苦しさからは解放されるのかもしれない。人間の心は、均質なもの、動きのないものなどではなく、いかに広大か。人間の心の広大さを知ることこそが、私たちの息苦しさや耐えがたさを減らす方法だと思う。
全てがコントロールできるという勘違いから離れ、コントロールが利かない世界の中で、時々ある「気づき」を大切にする。それだけで良いのかもしれない。
人間が人間と付き合う価値は、人間の動く心がわかるようになることに尽きるのだろう。
◾️おわりに
・ここまで感情労働について考えてきたが、感情労働は、他人のために自分の本当の感情を犠牲にするところがあるという意味では「利他性」の考察が必要である。最後にそれを考えたい。
自分を犠牲にしてまで、他人のために動く、という利他性の起源はどこにあるのか。
通常、血縁関係にあるものを助けるためには、自分の身を危険に晒すことは意味があるとされる。なぜなら、自分の子どもやきょうだいが生き残れば、自分の遺伝子が残るのだから。これは「利他性の血縁選択説(kin selection)」である。また、血縁関係になくとも、自分を今危険に晒して相手を助けることで、将来相手から自分を助けてもらえる可能性がある場合は、利他行動に出る意味があるとされる。これは「互恵的利他主義(reciprocal altruism)」である。
しかし、人間の社会で現れている利他性を説明するのに、血縁選択説と互恵的利他主義だけでは不十分として、アメリカの心理学者レダ・コスミデスらは、「かけがえのなさ(irreplaceability)」を導入している。
・コスミデスらによると、平常時には自分に大きな利益をもたらす人同士で元気に交流していればいいだろうが、私たちが狩猟採集民だったとすると、狩りの時に怪我をしたり、敵から攻撃されたり、病気をしたりということは頻繁にあって、困った時には、平常時に優しかった人が自分を助けてくれるとは限らないという。相手にとっての自分の価値が低くなってしまったからである。それゆえに困った時にも、他者の援助を引きつける能力が我々には必要で、そのために、自分の他には代わりがいないということを人にわかってもらおうとして、他人に評価される自分だけの特徴を見つけようとしたり、技術・習慣・属性などを獲得しようと力を尽くしたり、実力はなくとも他者に自分がかけがえのない存在であることを肩じさせようと嘘をついたり、倍じてくれる人がいなければ自分を必要としてくれる社会的グループを求めて居場所を移していったり、同じグループ内で自分と同じような能力を持つ個体にはやきもちを焼いたり、といった人間社会でよく観察される行動が現れてきたのだという。
かけがえのなさということを考えると、人間には無限の種類の価値があることになる。なぜなら、相性の問題があるからだ。このグループには、りんごが溢れていて、私の持っているりんごは価値がないけれども、りんごのない土地に行けば、私の持っているりんごは欲してもらえることになる。自分にないものを持っている人が素敵に見える。人によって素敵に見えるものは変わってくる。みんな同じものを持っていなければならないのではなく、他人を助ける動機はさまざまになる。そして他人に対する感情もさまざまになる。
そして昔は自分が危機に陥ることはかなりの頻度であったので、正真正銘の困った時に助けてくれる友がどの人かは感じやすかったが、今のような比較的安定した社会では、いい時だけの友だちが真の友だちのふりをしていることがたくさんある。それで今の私たちがなんとなく、自分が他人のために何かやってあげた時に、すぐにモノとしてお礼を渡されると寂しい気持ちになったりするのは、真の友だちはそのような直接的な利益のやりとりとは遠いものであることを私たちが知っているからだと言う。
「便利」とは違う価値、曰くいい難い価値が、それぞれの人にはあるということである。
・私たちの意識が、物質である脳からどのように生み出されているのか、という問題は、脳・神経科学の中の最大の謎であり、「ハード・プロブレム」と呼ばれている。物質である脳の働きをいくら調べてみても、意識がどのように生み出されているかはわからないから、「ハード」プロブレムと呼ばれるのである。
私が感じていることは、言葉には表しきれない。それなのに、今私たちは言葉で言えば全てがわかると思っている。言葉に頼りすぎていて、言葉だけを膨大に読み込んで大規模言語モデルを作り上げ、それが人間を超える知性を見せるようになるかということにまで挑んでいる。
私たちの言葉に私たちの心は、どこまで含まれているだろうか。
わかりやすさだけを求める世界は、息苦しい。「Aと言えばAと伝わる」そんな世界は本当は存在しない。全てが言葉に表れているというならば、物言えぬ人たちには心がないのだろうか。私は、大規模言語モデルは無意識で言葉を流暢に話すけれども、認知症になった母は言葉を流暢には話せなくなったが大規模言語モデルよりもずっと豊かな心を持っていると感じていた。人間の無意識と、大規模言語モデルの無意識は、一つの言葉を発するまでの処理という意味で、異なっているのかもしれない。
意識を科学的に解くのが難しいということは上記のようにハード・プロブレムとして長らく知られてきたのだが、無意識だって科学的に解くのは同じくらい難しいのだろう。私たちの心はどのように動くものなのか?そして私たちの心はどこまで広いものなのか?人工知能を鏡に、改めて私たちはこれから確かめていったらどうだろう。人間らしさを存分に発揮するためにはそれしかないような気がするのである。
本当に感情を働かせるというのは、AならばAと伝わり、必要なことが手に入り、互いが相手にとっての空気になる、ということとは違って、衝突しながら、動きながら、面倒なことを背負う中で一つひとつ気づくことが増えていき、無意識の感情の空間を探索し、「利用」とは違った意味で、誰の心ともつながれるようになることをいうのではないか?人間の広大な心を知ろうとすることが、今の私たちにとって必要な感情労働なのではないかと私は思う。そのためにまず、真っ暗闇に目を向けて、必ずしもうまく言葉にはならない、感情の動きを感じてみよう。自分や他人の小さな感情を意識的に大切にする社会が作れたら、とてもうれしい。
