
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月22日
読んでる
私の心は、世界の波打つリズムの振幅に常に揺れている。私は世界の広大なリズムと呼応し、またときに抗う。私はただ独りで私なのではなく、私に訪れてくるものたちと交する存在の波である。リズムは、どんな細な揺れであろうとも、私の身体の細部、表情や行為に干渉する。
……
知覚は「波が浜辺の漂流物をとりまくように、世界が絶え間なく主観性をおそい、そして包囲しにくる」ことを前提にしてはじめて機能する。
……
知覚は世界のただ中で起こっている。私が世界を知覚しているのではなく、いわば世界が私を通じて、私の内部で知覚している。私が見ているのではなく、世界が私の眼を通じて見ている。
(p.269 「メルロ=ポンティーー切り結ぶ心」)
ムーミンパパは、海との苦闘の末、
これを鮮やかに解決する。
「そら、海はときにはきげんがよく、
ときにはきげんがわるいが、
それがどうしてなのか、
だれにもわからないだろ。
わしたちには、水の表面だけしか見えないからね。
ところがもし、わしたちが海がすきなら、
そんなことはどうでもよくなるんだ。
あばたもえくぼってわけさ……」
「じゃ、パパは、いまは海がすきなんだね」
と、ムーミントロールはおずおずとききました。
「わしはいつだって海がすきだったよ」
ムーミンパパは、むっとしたようにいいました。
(『ムーミンパパ海へいく』第7章 南西風)
生きているもの、自然、
それらを「問題」として捉えないこと。
「問題」には所有格が伴う。
その時点で非対称性が発動する。
「持つ者」の方が上であるという傲慢。
「持つ者」としての戦いに疲弊しきったムーミンパパは、その果てに「持たざる者」を選ぶ。
海を、自身の心から解放する。
そして、海のことがすきになる。
すると、不思議なことが起こる。
パパが海(世界)を知覚しているのではなく、
いわば海がパパを通じて、パパの内部で
知覚しているーーそうやって、海は心を開く。
「島」を守ろうとするのも、「海」に抗うのも、
そもそも不可能事だということ。
"それは、ありのままに在ることを信頼することである。"
(p.298)