
中村
@boldmove33
2026年2月22日
平和と愚かさ
東浩紀
読み終わった
筆者は YouTube やウェブ記事において本書の主題を「平和とは考えないことである」として示していたが、じっさいには(あたりまえだが)複数のテーマや論点が重なる著作になっていた。東浩紀の著作を読んだのはこれが初めてだったが、刺激的でおもしろかった。「加害者による数の暴力=忘却と被害側による意味の再付与=記憶」(p. 206)の共謀が加害の愚かさを後景化させること、犠牲者意識ナショナリズムをはじめとする「被害の物語」はかならず「敵」の存在を必要としてしまうこと、村上春樹論もおもしろかった。人文学を経験科学(=自然科学と社会科学)と対置させ、その意義をテーマパークの運営業務と顧客対応になぞらえて、幻想の訂正をすることと結論づけているのも圧巻だった。
>平和への志向と反戦運動は似ているようで本質的には異なる。平和は考えないことで定義されるが、戦時には考えないことは端的に意味を持たなくなる。戦争について考えないからといって、戦争が止まるわけではないからだ。むしろ戦争を止めるためには、平和ボケとはまったく逆に、現実の政治に深く入り込み、戦争を推進する勢力と厳しく対峙する態度が必要になってくる。その対立の姿勢こそが反戦と呼ばれるものである。(p. 27)
>かつてナショナリズムといえば英雄や勝利の物語(加害の物語)が中核になった。しかしいまでは、自分たちは弱者で、犠牲者で、だから正義なのだという訴え(被害の物語)のほうが中核になってきている。博物館のテーマパーク化は、そんな国家意識の変容のわかりやすい表れでもある。(p. 87)
>平和は詩でつくられる。詩は愚かだ。暴力的でもある。しかしその愚かさを失ってしまえば、ぼくたちは結局のところ永遠の戦いに閉じ込められるだけだろう。心の傷は、賢さではけっして癒されないからである。(p. 159)
>けれども、そこでほんとうに記憶すべきものは、まさに加害者たちが、犠牲者を数に変え、固有性を奪い、交換可能な実験材料として、だれをいつ殺してもいいし殺さなくてもいい、そのような徹底した無関心に達していたことのおそろしさにあったはずなのである。その無関心こそが、彼らを悪をなすことを可能にしたのだから。けれどもそのおそろしさは、被害者が害を物語化し、悪に意味を与えた瞬間に消えてしまう。つまり、この問題においては、数の暴力に意味で抵抗するという、前述の構図そのものが機能しないのだ。加害者による数の暴力=忘却と被害側による意味の再付与=記憶は、むしろ共謀して、数による加害という無意味の意味を見えなくしてしまうのだから。(p. 205–206)
>けれども、おそらくは悪については、加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるのだ。加害者、あるいはより広く加害の文化の継承者は、井戸に潜ることではじめて、加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けることができるのではないか。それが、僕が本論で明らかにしようとしてきたことだ。(p. 231)
>けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうとも思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すら繰り返すかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。いかなるイノベーションが生まれたとしても、人類が人類であるかぎり、その条件は変わることがない。(p. 325)
>リゾートを享受する客のほとんどは、ほかのどこかで他者に奉仕し、対価として金銭を獲得した人々だ。つまりフルタイムで動物なわけではない。ここに現代社会の重要な特徴がある。ひとはときに人間になり、ときに動物になる。同じ人間があるときは裏方となり、あるときは客となる。それは裏返せば、現代社会では搾取するものと搾取されるものを実体的に区別できないということを意味している。ある局面で搾取されているひとも、ほかの局面では搾取する側にまわっているかもしれない。階級が分かれているわけではない。いま左派が力を失っているのは、そのような変化に対応できていないからだ。(p. 461)
>けれども消費者的—生産者的二重体の時代においてはそうはいかない。そもそもテーマパークが幻想であることはみな知っている。裏方の苦労もみな知っている。そのうえでみな幻想を楽しみにして生きている。そんな状況において、この世界は嘘だという左派や陰謀論者の言葉はとても単純で幼稚に響く。なるほどテーマパークは嘘だろう。世界は幻想だろう。しかし、そもそも人間に、世界を幻想で覆う以外にいったいなにができるというのか。それこそがいま多くの人が感じていることであり、そして消費者的—生産者的二重体の時代のもっとも本質的な問いだ。(p .475–476)