みっつー "私が間違っているかもしれない" 2026年2月27日

みっつー
みっつー
@32CH_books
2026年2月27日
私が間違っているかもしれない
私が間違っているかもしれない
ナビッド・モディリ,
キャロライン・バンクラー,
ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド,
児島修
はじめはタイトルに惹かれただけだった。 「私が間違っているかもしれない」 ここ最近、人と話をしたり、SNSを見たりしていると、「正義」と「悪意」がフィルターを通すことなく吐き出される瞬間をたびたび目撃していた。 その度に私は「この人たちが言っている正しさは本当に正しいのだろうか」と思っていた。 それはときに、自分を守るため、他人を守る(守っている気になっている)ために振りかざされる正義、一般論であり、そこに本当にあなたが考え出した正義はあるのだろうかと考えてしまう。 誰かが誰かに「正義」を振りかざすとき、相手の「正義」は無視される。 そういった議論が行われた末に存在しているのは、そんな勝ち負けや、白と黒をはっきりさせなくてはいけないものなのだろうか。 「私が間違っているかもしれない」 この言葉は魔法の言葉だ。 その呪文は自らの「正しさ」を殺すものではない。 相手の「正しさ」を受け入れようとする姿勢だ。 人は誰でも、自分のことを多かれ少なかれ合理的、理性的で、現実的に物事を考えられる分別のある存在だと思っている。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.48 これらの違和感は慢心だ。 自分よりも知識のない相手、立場が弱そうな相手、間違いを犯した相手に対して、人は容赦なく正義を振りかざす。 私自身にだってそういう感情がゼロで、全く感じたことがないのかと聞かれれば、それは嘘になるだろう。 陰口や、悪口で、人との距離を縮めたことがないとは言い切れない。 しかし、その日の帰り道はどこか、胸に痛みを覚えたりもする。 「なぜあんなふうに言ったしまったのか」とか「むしろ相手に嫌われてしまったのではないか」「もしかすると今日話した内容が本人に伝わってしまうのではないか」など、負の感情が巡り始めてしまう。 何度もいうように、幾許かのそういった状況に巻き込まれたり、踏み込んだりしてしまうのは、人間社会で生きる以上仕方のないことである。 だが、自分を顧みることなく、相手の言い分を無視して、自分の正しさを主張し続ける姿勢に、納得することはできない。 誰かに対して「こうあるべきだ」と思ったからといって、その人がその通りの人間に生まれ変わったりすることは絶対にない。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.86 人にものを教えたり、ときには怒ったりするのはとても難しい。 皆誰しもが引用部分のようなことを、なんとなく理解しているからだ。 人には人に合った教え方や、怒り方、受け取り方があり、けれど、自分への責任の重さなども相まって、それらの気遣いを忘れてしまう。 むしろ、気遣う必要などない、というふうに思う人もいるかもしれない。 私は「こうあるべき」の「べき」の部分は、特段強く否定はしない。 「べき」の部分をどのよう伝えたら、相手は、相手なりの「べき」を感じ取ってくれるかが重要だと思う。 自分が「毎日勉強をするべきだ」と相手に伝えたいのであれば「毎日勉強しないことでのデメリット」などを自分の体験などを通して説明した方が相手に伝わるかもしれない。 相手を、自分が求める人間に仕立て上げようとするのではなく、相手の考えを受け入れたうえで、どのようにすれば自分の考えを伝えられるかということを意識するのが、コミュニケーションなのではないかと、私は思う。 自分に対して優しく寛容になれば、自然と周りの人たちにも同じように接することができるようになる。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.237 ここまでかなり他者に対しての言葉を連ねてきてしまったけれど、それは自分自身にも言えることだ。 とにかく自分を大切にする。 人にばかり向けている目を、自分の内側へと向けてみる。 自分は、自分が思っているほどまともではない。 だからこそ、そんな「まともじゃなさ」を認めてみる。 すると、相手の「まともじゃなさ」も自然も受け取れるようになる。 嫌な言葉遣いをするあの人も、あの人なりの生きてきた環境や、育てられてきた環境で培ってきた言語なのかもしれない。 そこに、「悪意」はないのかもしれないし、あるのかもしれない。 大切なのは、完璧を求めず、「自分はできる限りのことをしている」と考えるようにすることだ。また「他の人も同じように、できる限りのことをしている」と考えよう。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.238 しかし、それでも相手は相手なりに大変なんだと、認めてあげることで、今ネットで感じているようなモヤモヤを少しでも軽くすることができる。 まぁ、そもそも見なくていいという意見もあると思うけれど、さまざまな思考が渦巻いているSNSは、あれはあれで面白い。 受け入れない姿勢でSNSを活用するのではなく、受け入れた上で、どんな感情を抱いて、でも、「間違っているかもしれない」という一歩引いた目で見ることで、新しい景色に連れてってくれる可能性を、私は信じたい。 勝ち負けや、白と黒にばかり気を取られないように、色んな意見を取り入れつつ、生きていきたいものですね。
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