
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月27日
読んでる
人間のいのちは誕生に始まり死で終わると考える直線的死生観のもとでは、心の傷は個人の所有であり、個人が人生の終焉を迎えるまでに回復する、あるいは成長することが期待される。しかし、円環的死生観のもとでは、心の傷は個人の所有であるとか、回復や成長は一世代で成されるものであるといった前提はくつがえされる。
紛争による傷は深く、自分のいのちが尽きるまでには癒されえないかもしれない。それでも、癒されなかった過去は、自分の後に続く無数のいのちによって受け継がれ、もういちど、あるいは何度でも、生きなおされ、癒されてゆくーーそのような大きな時間的スケールのなかで回復の軌跡を描くことができるのである。
円環的死生観に照らしてみたとき、未来へと向かって「生きる」こととは、何世代ものいのちが生き続ける」ことである。そして、ただ「生き続ける」というその弛まぬ歩みによって、深い苦しみと傷つきを超えて、たましいが癒されてゆくことである。
(p.318)
癒されなかった傷は「託す」ことができるということ。
しかしこれには、受け継がれた傷に対し、「自分が自分の代で癒しきる」という思いで、懸命に生き抜いてはじめてできることではないか。
とにかく、生半可な生き方では、「託す」ことがおこがましさにもなりうる。
つまり、「それでも」生き抜いたーーその誇りが、後世に「託す」ことを、贈与に似たかたちでつなぐことができるということ。
本当の意味で「生きる」ことができなかった者から授かるものはただの「不条理」として映る。
本当の意味で「生きる」ことができた者から授かるものが、後世にとっては、
まずもってそんな先代の子孫であるという「自信」と「誇り」であるということ。
それから、共同体の癒し難い傷は、「受け継ぐべきもの」として、肯定的な認識とともに、血として受け継がれた「自信」と「誇り」をもって、神話的に受け取ることができるということ。
著者の筆致に、絶えず鼓舞を与えられるという稀有な読書体験。
読んでいて、『苦海浄土』(石牟礼道子)の実話から生成されゆく神話性を思い出す。



