生きることでなぜ、たましいの傷が癒されるのか
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高山碧瑶@uya_202509062026年4月9日買った読み終わった@ 飯野書店ルワンダ内戦ではツチやフツ穏健派がフツ系の政府とフツ過激派によって殺害されたルワンダ虐殺がクローズアップされてきた。しかしこの内戦後に亡命ツチ系のルワンダ愛国戦線(RPF)の反攻と体制転換、それによって発生した亡命フツ系の武装勢力とRPFによるアバチェンゲジ紛争によって多くのフツ、ツチ双方の国民が虐殺や殺害の対象となった。 著者のフィールドワーク地域のムサンゼ地域は住民のほとんどがフツ系で、アバチェンゲジ紛争での犠牲者が多かった。しかし現在のRPF主導の政権下ではフツ系側の被害を語ることは虐殺イデオロギー法をはじめとする法律によって処罰の対象となるリスクがあり、住民たちは沈黙を余儀なくされている。 本書ではこのような状況の中で住民たちがどのように戦災の傷から回復しているのかをインタビューや教会·講·死生観の調査によって明らかにしてきた。 内戦によって誰もが不条理な死とコミュニティの断絶を経験するなかで、生活を通してコミュニティの再建と共存によって被害者加害者の和解を目指しているというのが、この本の問い「生きることでなぜたましいの傷が癒されるのか」の一種の答えになっていたように読めた。 災害や戦争の傷を個人の内面の問題としてとらえる精神医学のアプローチに加え、コミュニティによる人間の回復というのはこれからもっと重視されていく必要があるのだろう。
くりこ@kurikomone2026年3月28日読み終わった読み終わった。とても良い本だった。すごくベタなこと言うけど、やっぱり傷ついたことへの最大の薬は、カウンセリングや薬でもなく、人との繋がりだと改めて思う。 ルワンダでは、西洋でとらえられている直線的時間ではなく、円環的時間が人々の間で共有されているため、未来をよくすることにより、過去が癒されると考える。「自分の代は癒されないけど子供、孫の代はよくなってほしい」という思いは、もしかしたら東日本大震災の原発事故に見舞われた人にもあるかもしれない。終わりの見えない福島原発の処理を考えると、原発避難民たちが本当の意味で癒されるとはどういう事だろう。 - 先の大戦のあとに、「円環的時間」を私たちが持っていたら、現在進行形で進んでいる戦争は起こらなかったんじゃないだろうか。命のバトンを渡しあうという感覚が世代を超えた相互互助をもたらしている。 トラウマを癒しあうために「祈り」が重要視されているという事、また、自分を攻撃してきた人に対しても「祈る」という事が興味深かった。キング牧師が、自分にヘイトを向けてくる白人へ非暴力を貫くために「汝の敵を愛せよ」という説教をしたことを思い出す。 未来をよくするためには、自分にヘイトを向けてくるような人とも和解してコミュニティを形成しなければならない。その間、自分が憎しみの感情でつぶれてしまわないよう、また相手に暴力を振るわないためには、人知を超えた超越的なものが必要になるのだと思う。



くりこ@kurikomone2026年3月27日まだ読んでるルワンダの共同体再生には「お祈り」がかなり役立っているようだ。 しかも自分を傷つけた相手のことも祈るというのは、キング牧師の「汝の敵を愛せよ」の説教を彷彿とさせる 傷つけた相手を直接変えようとすると、暴力の連鎖が起こることも多い。そこで、相手が変わるためにも、祝福があるよう祈り、神様に委ねる。自分のトラウマが解消するための最初のステージとして、自分の恨みを手放さないといけないのだろう。




くりこ@kurikomone2026年3月24日まだ読んでる第六章 回復の限界 第五章までは、ルワンダの相互互助の関係が培われている共同体全体でトラウマを癒していく過程を見たが、やはり限界はあるよう。同じツチ族でも、ツチ地元民、ジェノサイド後に帰ってきた帰還民で支援の受け取れる量が違い、助け合いが出来ない状況にある。こういう状況だからこそ「沈黙を破る」西洋のトラウマ治療では効果が見られないのだ。 (日本でも、例えば、「違法」薬物依存症は、皆の前で「沈黙を破る」治療ができない のでは?使用している薬物が「違法」である限り、刑期を終えていなければ皆の前で公言できない。「語りえぬもの」のために体験の意味付けができない・・・。) p.289 社会変革、人権擁護を促すために政治的意思を持って語ることは「トラウマ」言説を用いながら訴えなければならない。そこでは、トラウマからの回復を求めて交渉しているはずなのに、かえってトラウマ症状の自己再生産が続き回復できなくなるというパラドックス(外傷性の語り)があることは、目からうろこ。 アイデンティティポリティクスは、「外傷性の語り」を引き起こしていそう。だからこそ当事者だけに担わせたらだめなんだよね



くりこ@kurikomone2026年3月22日まだ読んでる第三章、第四章 ・西洋で「トラウマ」と呼ばれるものがルワンダでは多くの言葉で細分化されていることが興味深かった。医師が使う専門用語は自分の困りごとにラベルを張って可視化するのに便利なのだけど、背景にある物語を見えなくさせてしまうし、医療という権威に服従させられてしまう。 ・傷ついた人を励ます際「命は続いていくから」と言い合う文化、すごく素敵。傷ついたからこそ、支えあって未来をより良くすることが出来る希望の言葉。教会が土着の宗教とミックスされて、皆と「祈り」をささげる場になってるのも、今の日本では見られない現象。困難を話し合うだけではなくて、更にお祈りをしあうことが、繋がりの回復になるのかな。 さらにはそれが加害者との和解につながる、とのこと。ただこれは、もともとルワンダのコミュニティに相互互助の関係性があり、それを回復するという目的があるからこそできるものなのだと思う。見ず知らずの加害者にこういうことできるのかな・・・?




くりこ@kurikomone2026年3月19日第二章 沈黙が生まれたいきさつ 1994年のツチ族へのジェノサイドは取り上げられることが多いので知っていたが、その直後にアバンチェンゲジ紛争が起こり、ツチ族フツ族関係なく大量の人が殺害されたという事を初めて知った。 殺害の手口がむごすぎる。関東大震災の朝鮮人虐殺を彷彿とさせる。なぜ、人間は、昨日まで一緒に生活を送っていた隣人をこうも残虐な方法で殺せるのだろうか。 ツチ族へのジェノサイドのみ国際社会で取り上げられるせいで、フツ族の被害者が沈黙させられる。西洋のトラウマ治療で推奨される「声を挙げる」方法に副作用があることがよくわかる。 トラウマ治療で共同体再生に力を入れることは、どの地域でも必要だと思う。しかし前提として、ルワンダの村のように、民族を超えた相互互助を大事にしている文化が必要なのではないだろうか。果たして日本では可能なのかという疑問はわく。



くりこ@kurikomone2026年3月18日まだ読んでる第一章「生きることを支える支援の在り方を求めて」 西洋のトラウマPTSD治療を植民地にされていた国で施すことは、当事者にとって再度植民地化されることと同義である、と。『ポストコロニアニズム』を先日読み終わったので、このロジックはよく理解できる。 ルワンダではトラウマを個人化せず、次の世代まで拡大し、未来に向かって「生き続ける」ことが回復となる、と読み、私の心に浮かんだのは、戦争トラウマ家族会のことだ。戦後80年たっても今だに、家族会に連絡をくれる当事者は少なく、戦争帰還兵からレイプされた娘、殴られた妻しか連絡をくれないという。深いトラウマというのは1世代ではきっと癒されないのだろう。アメリカが帝国主義に突き進み、自国が追随してる様子を見ると、ルワンダの「未来に向かって生き続ける」姿勢は、どの国にも必要だったのではないかと思う。 メモ:1994年、ツチ族50万虐殺





くりこ@kurikomone2026年3月17日『世界12月号』の大竹さんの論考を読んで。 学術書なのにリズミカルでグイグイ読ませてくれる本。 p.17 われわれは政府から見捨てられてきた。だが、われわれは政府の手も外国人の手も借りない。自分たちの手で必ず復興してみせる。たとえどんなに小さな変化でも、自分たちの手で変革を起こしてみせる ———- 石牟礼道子さんの本と合わせて読んでいきたい本。





ジクロロ@jirowcrew2026年2月27日読んでる人間のいのちは誕生に始まり死で終わると考える直線的死生観のもとでは、心の傷は個人の所有であり、個人が人生の終焉を迎えるまでに回復する、あるいは成長することが期待される。しかし、円環的死生観のもとでは、心の傷は個人の所有であるとか、回復や成長は一世代で成されるものであるといった前提はくつがえされる。 紛争による傷は深く、自分のいのちが尽きるまでには癒されえないかもしれない。それでも、癒されなかった過去は、自分の後に続く無数のいのちによって受け継がれ、もういちど、あるいは何度でも、生きなおされ、癒されてゆくーーそのような大きな時間的スケールのなかで回復の軌跡を描くことができるのである。 円環的死生観に照らしてみたとき、未来へと向かって「生きる」こととは、何世代ものいのちが生き続ける」ことである。そして、ただ「生き続ける」というその弛まぬ歩みによって、深い苦しみと傷つきを超えて、たましいが癒されてゆくことである。 (p.318) 癒されなかった傷は「託す」ことができるということ。 しかしこれには、受け継がれた傷に対し、「自分が自分の代で癒しきる」という思いで、懸命に生き抜いてはじめてできることではないか。 とにかく、生半可な生き方では、「託す」ことがおこがましさにもなりうる。 つまり、「それでも」生き抜いたーーその誇りが、後世に「託す」ことを、贈与に似たかたちでつなぐことができるということ。 本当の意味で「生きる」ことができなかった者から授かるものはただの「不条理」として映る。 本当の意味で「生きる」ことができた者から授かるものが、後世にとっては、 まずもってそんな先代の子孫であるという「自信」と「誇り」であるということ。 それから、共同体の癒し難い傷は、「受け継ぐべきもの」として、肯定的な認識とともに、血として受け継がれた「自信」と「誇り」をもって、神話的に受け取ることができるということ。 著者の筆致に、絶えず鼓舞を与えられるという稀有な読書体験。 読んでいて、『苦海浄土』(石牟礼道子)の実話から生成されゆく神話性を思い出す。



くりこ@kurikomone2025年12月12日読みたい痛みと共存できるためには、どういう回路を通るのか?たくさんの事例が知りたい あと、ケアの根底に流れるものは祈りなのかなって思うことが多くて、何かヒントをくれそう




saeko@saekyh2025年11月3日大竹裕子さん、なんて聡明な方なんだ! 1990年代の虐殺と紛争の傷跡がいまだ残るルワンダで、人々がどのように傷つき、苦しみ、そしてどう再生していくのか、というプロセスについて、参与観察による民俗誌調査を通して明らかにしている。 トラウマ体験をカウンセリングによって治療するというのは、西洋医学に基づく個人主義・普遍主義的な思想に基づく手段であり、非西洋社会にも等しく適用できるものではないという批判が目から鱗だった。 西洋圏の研究者たちが未開のものとして軽んじてきたであろう、土着の魔術的な文化が心の傷の治療に効果的なこともあり、伝統的な村医師に診てもらうほうが症状が楽になるケースもあるようだ。 ここで描かれているのは、生き残った人々が共同体を築き、支え合って生きていこうとする姿だ。「家族はなぜ殺されたのか」「自分はなぜ生き残ったのか」という実存的な問いを抱えながら、同じ傷を持つ人々と復興に向けて助け合うことで、自分の経験の意味を社会の歴史というナラティブの中に位置づけることができる。そして西洋や日本のような直線的な時間ではなく、円環的な時間のなかで生きる彼らは、「未来に向かって生きることで過去が癒される」と考える。まさに「生きることで、魂が癒される」ことの文化的背景が、質的研究と理論研究の巧みな組み合わせにより詳らかにされている。 大竹さん、ルワンダの人々を助けたいという強い想いで現地で住み込みでリサーチと支援をしていること、そこで現地の人々とラポールを築いてかなり肉厚な調査をしていること、そして自身の研究を学術的見地を明らかにしながら明晰に論文化しているのが本当に凄すぎる。この研究をもとに国際援助の新しい仕組みづくりを実行したら、ノーベル平和賞が取れそうなくらいの内容だと思った。






























































