綾鷹 "別れを告げない" 2026年2月28日

綾鷹
綾鷹
@ayataka
2026年2月28日
別れを告げない
別れを告げない
ハン・ガン,
斎藤真理子
作家のキョンハ、友人で済州島出身のインソン、いま生きる力を取り戻そうとする女性同士が、済州島4・3事件の歴史に埋もれた人々の激烈な記憶と痛みを受け止め、未来へつなぐ再生の物語。 想像できる痛みと想像できない程の痛みが表現されていて、読みながら胸に痛みが残る。 恥ずかしながら韓国でこんな事件があったことを知らなかった。 同じ国内で虐殺が起こるなんて、想像を絶する。 歴史の事実だけでなく、物語として語る大切さを改めて感じる小説だった。 ・あの小さな子が、家まで這ってくるとき何を思っていたか?息の絶えた母さん父さんの横に寝ていたあの子が、真っ暗な麦畑を抜けて家まで来るときよ。お使いに行った姉さんたちが帰ってくると、思ったのでないか?姉さんたちが助けてくれると、思ったのでないか? ・何台もの護送車に乗り込むのですが、列の後ろの方で若い女性が、だめ、だめと泣き叫んでいました。飢えのせいか何か病気だったのか、死んだ乳飲み子を波止場に置いていけと警察が命令したんです。それはできないと女性が抵抗していると、警官が二人、おくるみごと赤ん坊をひっさらって地面に置き、女性を前に引きずっていって護送車に乗せました。 不思議なことです。私はあの、言葉にもできないような拷問のことよりも・・・・・辛かった懲役暮らしのことよりも、あの女性の声をときどき思い出すんです。あのとき並んで歩いていた千人以上の人たちがみな振り返って、そのおくるみを見ていたことも。 ・二枚のセーターと二枚のコートでも遮れない寒さを感じる。外から来るのではなく、胸の奥から始まっているような寒気だ。体が震え、私の手と一緒に揺れる炎の陰影で部屋のものすべてがざわめく瞬間、私は理解する。このことを映画にするのかと聞いたとき、インソンが即座に否定した理由を。 血みどろの服と肉が一緒に腐っていく匂いや、何十年間もかかって柄ち果てた骨たちの燐光が消えてしまうからだ。悪夢は指の間からすり抜け、限界を超越した暴力はそこから除去されている。四年前に私が書いた本から抜け落ちていた、大通りに立つ非武装の市民らに軍人が放った火炎放射器のように。火傷で水疱がふくれ上がった顔や、体に白いペンキをかけられて救急室に運ばれてきた人々と同じように。 ・このあたりで立ち止まって、母さんはあっちの方を見ていたの。岸のすぐ下まで上ってきた水が滝のような音を立てて流れていてね。ああやってじっとしているのが水見物なのかな、と思いながら母さんに追いついた記憶がある。母さんがしやがんだから私も隣に座ったの。私がいることに気づいて母さんは振り向き、黙って笑いながら私の顔を手のひらで撫でたんだ。続けて、後ろ頭も、肩も、背中も撫でてくれた。重たい、切ない愛が肌を伝って染み込んできたのを覚えてる。骨髄に染み、心臓が縮むような・・・・・・そのときわかったの。愛がどれほど恐ろしい苦痛かということが。 ・頭の中の何千個ものヒューズがいっせいに火花を散らし、電流が流れ、一つずつ切れるようなプロセスを私は見守ってたんだ。ある瞬間から、母さんは私を妹とも、お姉さんとも思ってなかったよ。 自分を助けに来てくれた大人だと言じてもいなかったし、もう、助けてとも言わなかった。だんだん私に話しかけなくなり、たまに話すときも、単語が島みたいに散らばっていた。うんとか、いやとか、そんな返事さえしなくなったときからは、何かを欲しがったり頼んだりすることもなくなったよ。だけど私がむいてあげたみかんを受け取ると、ずっと刻み込まれた習慣通りに半分に分けて、大きい方を私にくれて、黙って笑うのよ。そんなとき胸が張り裂けそうになったのを覚えてる。子供を産んで育てたらこんな感覚を覚えるようになるのかと思ったこともね。 ◾️あとがき ・何年か前、どなたかに「次に何を書くのですか」と聞かれたとき、愛についての小説であればよいのですが、と答えたことを思い出す。今の私の気持ちも同じだ。この本が、究極の愛についての小説であることを願う。 ◾️訳者あとがき ・ここまで長々と四・三事件について書いてきたのはすべて、『別れを告げない」というタイトルの意味を共有したいからでもある。ハン・ガンが、このタイトルは「哀悼を終わらせない」という意味だとはっきり述べているからだ。 このタイトルは、直訳すれば「作別しない」となる。「作別」という熟語には「別れる」と「別れを告げる」の両方の意味があり、それを「しない」とは、ハン・ガンによれば「別れの挨拶をしない」と「別れを実行しない」の両方を指すそうだ。それは「決して哀悼を終わらせないという決意」であり、「愛も哀悼も最後まで抱きしめていく決意」という意味なのだという。 「決して哀悼を終わらせない」という言葉の強さは、韓国における四・三事件の歴史的位置づけという難しい問題を勘案することで初めて理解できるだろう。 最初にも触れた通り、この小説は歴史の傷を描いたという点で「少年が来る」と対をなすものである。しかし、五・一八(光州民主化運動が起きた日)と四・三は、大韓民国の歴史の中で単純に同一線上には並ばない。 光州民主化運動は、民主化を求めて立ち上がった市民らの「義挙」である。この出来事も軍事独裁政権下では四・三事件と同様「暴動」と見なされていたが、民主化後は名誉回復が進み、光州は「聖地」となった。 一方で、四・三事件は南だけの単独選挙への反対に端を発するもので、単独選挙に反対するということは、大韓民国の存立基盤そのものに抵触する。そのため、四・三事件の歴史的位置づけはいったん棚上げとした上で、「受難と和解」という視点に立って真相究明や名誉回復が進んできたのである。 ・書くそばから、撮るそばからこぼれ落ちてしまう事実の重さを、インソンもキョンハも熟知している。しかしそれでも書かなくてはならないという覚悟のようなものが「別れを告げない」には行き渡っている。解放がストレートに独立につながらず、残酷な死の真相が何十年も放置されてきた、韓国現代史におけるこの不連続性に、ハン・ガンが小説を書きつづける意味があるのだと思う。 ・物語の後半、生と死のどちらともつかない場所でキョンハとインソン、アマとアミは一緒にいる。人も鳥も幻想の中で対話し、思いをかわすが、これについてハン・ガンは「愛するとは自分の生だけでなく、愛する人の生を同時に生きることだと思います。特に愛する人のために祈るとき、自分はここにいるが同時にそこにもいるという状態になるでしょう。切なる心でそれを希求するとき、その状態はおのずと超自然性を帯びてきますよね」と語っていた。「あなたのこといっぱい考えた」から、「本当に一緒にいるような気がする日もあったよ」と語るインソン、意識不明の娘がお粥を食べに帰ってきたのを見た正心、刑務所にいながら済州島の故郷を見つめつづけたインソンの父がここでつながる。鳥の命を救うことができず、家族の消息を探す努力が「失敗」し、誰かの認知がかすみ、記憶が記憶でいられなくなっても、哀悼を終わりにしない。 「人間が人間に何をしようが、もう驚きそうにない状態」を通過しても、哀悼を終わりにしない。 ・哀悼は単に忘却に抗うためでなく、今を生きて未来を作るためにある。訳者は現代韓国の小説からそのような強い意志をたびたび感じてきたが、『別れを告げない』はその真骨頂ではないかと思う。インソンとキョンハは、悪夢を通してさえ生きる勇気を交換し合ってきた間柄であり、哀悼を通してこそ、最も生きようとしている同志なのだと思う。キョンハは家族と仕事を失い、自殺のすぐそばまで行って戻ってきた経緯がある。インソンは十代にして、生きていくためには母と島を捨てるしかないとまで思い詰めたことがあり、母と和解したずっと後も、PTSDを抱えた母の介護の辛さに死を考える。これら今日的でリアルな生きがたさを抱えた二人の女性の結びつきが、激甚な歴史の痛みを通過して、生死をまたぐ愛の状態にまで昇華される。 インソンは三分に一度、指に針を刺すという過酷な医療措置を受けており(これはハン・ガン自身が友人を見舞ったときに病院で実際に見たものだそうである)、それはキョンハの激しい頭痛と呼応しながら「別れを告げない」の枠組みを作り上げている。ハン・ガンの作品においては、鳥と並んで(木の存在も非常に大きいが、本書では木が、梢を切られた状態で登場することも興味深かった。「回復する人間」(斎藤真理子訳、白水社)で描かれたように、痛みを通じてこそ回復に至れるというハン・ガンの念を改めて確認する思いだったのだが、実際、この作品を書くことで作家は自分が回復したと感じたそうである。そして、書き終えた後、悪夢を見ることはなくなったとも語っていた。 と同時に、同じインタビューで作家が「人類が長い歴史の中でずっとくり返してきたジェノサイド」に言及し、「このような人間の本性について問いかけることをやめずにいたい」と吐露していたことも忘れがたい。このあとがきを記している今もガザへの攻撃は止まないが、「書きながら、死から生へ、闇から光へと自分自身が向かっていることを発見した。光がなければ光を作り出してでも進んでいくのが、書くという行為だと思う」というハン・ガンの言葉を書きとめておきたい。
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