
ジクロロ
@jirowcrew
2026年3月1日
バガヴァッド・ギーター
上村勝彦
読んでる
祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。
(三・一三)
神や祖先の霊など、目に見えない存在を
信じること。
そしてそのつながりを肯定すること。
それにより「まなざし」を得るということ。
見守られているという意識が、
安心感を与えると同時に、罪を遠ざける。
「ギーター」は、後者のことを伝えようとしている。
"わたしたちは美を食べたいと欲するであろうが、美は見つめる対象でしかなく、美はある一定の距離を保ってしかあらわれない。人間の生の大いなる痛みとは、見つめることと食べることとが、ふたつの異なる働きだということである。
……
見つめるべき美を食べたのはイヴが最初である。果実を食べることでイヴが人間性を失ったのならば、その反対の態度である果実を食べずに見つめるということは、救うものであるはずである。「二羽のつがいの鳥が木の枝に止まっている。一羽は果実を食べ、もう一羽は果実を見つめている」、と『ウパニシャッド』は述べている。この二羽の鳥は、わたしたちの魂のふたつの部分である。"
(『世界の秩序への愛』 シモーヌ・ヴェイユ)
「ウパニシャッド」は哲学。
「ギーター」は実践。
ヴェイユの「ギーダー」は、
「食べない」こと(拒食)を選んだということ。
ヴェイユのなかで、
「祭祀」を果たせていないという意識があったからこそ、その「残りもの」すらない(食べる資格がない)という認識に至ったのかもしれない。
「美を食べる」とは、人間特有の欲望であるが、
「罪を食べる」とは、人間として嫌悪すべき行為
であるということ。
ヴェイユの実践が胸に深く刺さる。
その槍には無数の「返し」がついている。

