バガヴァッド・ギーター
14件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年3月1日読んでる祭祀の残りものを食べる善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。 (三・一三) 神や祖先の霊など、目に見えない存在を 信じること。 そしてそのつながりを肯定すること。 それにより「まなざし」を得るということ。 見守られているという意識が、 安心感を与えると同時に、罪を遠ざける。 「ギーター」は、後者のことを伝えようとしている。 "わたしたちは美を食べたいと欲するであろうが、美は見つめる対象でしかなく、美はある一定の距離を保ってしかあらわれない。人間の生の大いなる痛みとは、見つめることと食べることとが、ふたつの異なる働きだということである。 …… 見つめるべき美を食べたのはイヴが最初である。果実を食べることでイヴが人間性を失ったのならば、その反対の態度である果実を食べずに見つめるということは、救うものであるはずである。「二羽のつがいの鳥が木の枝に止まっている。一羽は果実を食べ、もう一羽は果実を見つめている」、と『ウパニシャッド』は述べている。この二羽の鳥は、わたしたちの魂のふたつの部分である。" (『世界の秩序への愛』 シモーヌ・ヴェイユ) 「ウパニシャッド」は哲学。 「ギーター」は実践。 ヴェイユの「ギーダー」は、 「食べない」こと(拒食)を選んだということ。 ヴェイユのなかで、 「祭祀」を果たせていないという意識があったからこそ、その「残りもの」すらない(食べる資格がない)という認識に至ったのかもしれない。 「美を食べる」とは、人間特有の欲望であるが、 「罪を食べる」とは、人間として嫌悪すべき行為 であるということ。 ヴェイユの実践が胸に深く刺さる。 その槍には無数の「返し」がついている。

ジクロロ@jirowcrew2026年2月26日かつて読んだ祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に東縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、その(祭祀の)ための行為をなせ。 (三・九) 自身の果たすべき行為。 それを「義務」と呼ばず、 「祭祀のための行為」と呼べば、 どこか気持ちが楽になるところがある。 そのように置き換えると、 ここでいう「執着」とは 「権利」という意味合いに近いのではないか。

RIYO BOOKS@riyo_books2024年3月9日読み終わった活動とその停止、行うべきことと行うべきでないこと、危険と安全、束縛と解脱を知る知性は、純質的な知性である。 その知性により、人が美徳と不徳、行うべきことと行うべきでないことを、不適切に理解する時、それは激質的な知性である。 その知性が闇に覆われて、不徳を美徳と考え、またすべてのものごとを顚倒して考える時、それは暗質的な知性である。 ヨーガによって不動となった堅固さにより、人が意と気息と感官の活動を固持(抑制)する時、それは純質的な堅固さである。 また、人が成果を期待して、その堅固さにより、美徳と享楽と実利を、執着して固持する時、それは激質的な堅固さである。 また、愚者がその堅固さにより、睡眠、恐怖、悲しみ、嘆き、酔い(驕恣)を捨てない時、それは暗質的な堅固さである。









