閉ざされた城の中で語る英吉利人 ピエール・モリオン 生田耕作訳 奢霸都館

4件の記録
49☕️はあまり読めない@shijuku492026年6月13日読んでる🌟愛読書奢霸都館(1981)のこちらは函つき、ハンス・ベルメールのエッチング七点つき。 エッチングは、初版本発行時に別刷り贅沢本のために用意されたが実現せず、後に別の形で発表されたものであるらしい。(「訳者後記」より) 生田耕作訳はこれを底本としてのちに中公文庫(2003)でも出版されている。 澁澤龍彦訳は白水uブックス(1984)から出版されているが、こちらの著者名及びタイトルは、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『城の中のイギリス人』。 (モリオンはもともとマンディアルグの変名) この白水uブックス版には、本国の初版発行から26年後に偽名の仮面を脱いだマンディアルグによる、執筆当時の思い出や興味深い解説などが序文として収録されている。その中でもハンス・ベルメールと蟹の話は必見。曰く、甲殻類を食うことは生体の分解・解剖・解体と似ていて、サド的な食べ物の系列に分類できる云々、と。 澁澤訳はより読みやすく面白くて大好きだが、しかし澁澤大先生はその影響を受けて翻訳家になった後人たちがビックリするくらい致命的な誤訳も多い人らしいので、本作品にもそろそろ新訳があってもいいのではないかな。 (秋吉良人訳『閨房の哲学』や、高遠弘美訳『完訳 Oの物語』のように。両人ともあとがきで愕然としている。) なおこの作品の内容は、マンディアルグ特有の煌びやかな美意識が行き渡った、サド公爵リスペクトなハード鬼畜系ポルノ。 中公文庫版の巻末の「本文中、登場人物の内面描写や会話に人種差別的な呼称がありますが〜」に続く文がなんとも振るっている。曰く、 「人間意識の禁忌にあえて踏み込む本作品の文学的特質に鑑み、原作を忠実に反映させた翻訳をそのまま掲載しました。」 ……この文面を49の中の“唯美主義者"くんは嬉々として味わっているが、一方で“理性者”は思考を始めた。コレって的確な言葉か? マンディアルグは演劇的な構造美を重視する作者であり、「あえて人間意識の禁忌にあえて踏み込む」奇怪な舞台を際立たせるために、“その配役(キャラクター)に持たせるに相応しい性質”として過剰なステレオタイプを採用したんだろう。それはわかる。 しかしそれらは意図的なものだったのか?単に作者内の固定観念だったのでは? 黒人キャラたちを性的に怪物的に野蛮に描き、ユダヤ人たちを矮小に無様に描写したのちに、でもこの悪辣で露悪的な主要人物(モンキュ)は、男も女も年齢も身分も国籍も問わず人間は等しく凌辱して虫ケラのごとく殺してるよ!イギリスもフランスもドイツも平等に馬鹿にして嘲笑ってるよ!人種差別者とかじゃなくて人類全員に情を持たぬサイコキャラなんだよ!……と言ったところでそれは本当に“平等な筆”なんだろうか?というのが49の疑問である。 “唯美の前では非倫理やリアリズムなどいかほどのものか”というようなスタンスがマンディアルグの「文学的特質」であることは間違いない。しかしその差別描写がどこまで作為的なものだったかは正直分からない。(気にするような点でもないかもしれないが) ……などなど思わなくもないが、もちろん49は無修正であること自体に文句があるワケではない。もちろん。 では、こういう“差別的表現に対する編集部注”には、どんな言葉が最も的確と言えるんだろうか? 個人的に一番納得したのは、同じくマンディアルグ作の『すべては消えゆく』講談社古典新訳文庫(2020)のものである。以下全文。 「本書には、今日、許容されるべきでない『啞』という言葉や『浮浪者』『不具者』などの用語が使われています。また、特定の民族に対して『スリを仕込まれたジプシーの子供たち』など、ステレオタイプの差別的な表現も使用されています。 本作品群が成立した一九八〇年フランスの社会状況に鑑みたとしても、それぞれ不快・不適切な表現であることは間違いありません。 しかしながら、本作の歴史的、文学的価値と、著者がすでに故人であることを考慮した上で、原文に忠実に翻訳することを心がけました。 それが今日ある人権侵害や差別問題を考える手がかりとなり、ひいては作品の文学的価値を尊重することにつながると判断したものです。差別の助長を意図するものではないということをご理解ください。」 あるいは (どの本で見かけたのか失念してしまったので確認はできないが) 作中の差別的表現に対して、時代を鑑み 、また「作者の限界」であるとしてそのまま掲載した、と書いているものがあった。 “作品が書かれた時代”の人権意識の限界ではなく、“作者”の人権意識の限界。 つまるところ、一番的確に言い表しているのはコレなんじゃないかと思う。


