レヴィナスの時間論
4件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年3月21日読んでる私たちは今自分の「知的資産目録」に書き入れるアイテムを増やすためにレヴィナスを読んでいるわけではない。むしろ自分の手持ちの知的資産がいかに使いものにならないかを思い知るために読んでいるのである。自分の既知に容易には還元できない知見に触れて、「分からない」と嘆息することそれ自体が哲学の修業なのだと腹を括らないと、レヴィナスは読み続けられない。 (p.129) 自分の引き出しにはない、新しい本の読み方を 教わっている気がする。 「わからない」の連続、その嘆息は 不快で終わらせないために、リズムにする。 ピリオドは、自ら置くことができない。 なるほど、なるほど、と 置いてしまえばそれで終わり。 それもまたリズムなり。 しかし「分からない」ばかりでは不快。 だからこそ、自らそれに代わる何かを 置こうと試みること。 「わからない」、という状態がわかる、 それをしかと確かめてから吐く嘆息。 ツクタンソク、ツクタンソク、 命なりけり、小夜の中山に 西行が置いてきた啖呵(たんか)、その切れ字も 「分からない」のピリオド。 顔に、夜空に、糸杉に、黄色に塗れた何かに、 ゴッホが巻いた渦もまたピリオド。 明確な「分からない」を置いていけば、 リズムが生まれる、そして時間が流れはじめる。 戦後の空白に取り残されたレヴィナスもまた、 そのように生きていたのだろうということが 分かりはじめる。

ジクロロ@jirowcrew2026年3月20日読んでる不眠は、私たちがそこに繋縛されている目覚めから身を引き剥がすいかなる手立てもないという意識によって形成されている。何の目的もない目覚め。そこに釘付けにされている時、私たちは自分がどこから来てどこへ行くのかを知らない。 (p.106) 睡眠を天国になぞらえると、 覚醒は地獄であるということ。 覚醒とは、自分を繋ぎ止めるための時間と場所を失った、剥き出しの状態。 "イデオロギーはたんなる「誤った意識」、つまり現実の幻覚的表象ではなく、その現実そのものである。それはすでに「イデオロギー的」なのだ。「イデオロギー的」なのは、参加者がその本質を知らないことを前提としているような社会的現実である。すなわち、その再生産のためには人間が「自分が何をしているのか知らない」ことを前提するような、社会現実性である。" (『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・シジェク p.44) 「私たちは自分がどこから来て どこへ行くのかを知らない」、 それと 「自分が何をしているか知らない」。 この二つの間の深淵。 前者は意識(覚醒)であり、後者は無意識(睡眠、捏造)。 そして「私たち」と「自分」。 それぞれが、知らない(知ろうとしない)事柄。 覚醒(私たち)とは、可能性であり、 睡眠(自分、自我)とは、状態。 "主体は、その論理に気づかないかぎり、「自分の症候を楽しむ」ことができる。それをどの程度うまく解釈できるかどうかによって、その症候がどの程度解するかが決まる。" (同上、p.45) "柔らかい日々が波の音に染まる 幻よ 醒めないで 渚は二人の夢を混ぜ合わせる 揺れながら輝いて" (『渚』 スピッツ)


