救われた舌

3件の記録
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年4月18日気になる読みたいエリアス・カネッティはブルガリアのユダヤ系の家に生まれ、母語をラディーノ語(古いスペイン語方言)とした。彼の両親はいつもドイツ語で会話をしていて、その両親が話す秘密の言葉を、少年の彼は覚えようとした。やがて彼はスイスで母親の指導のもとドイツ語を(きわめて苦労しながら)学んだ。そして彼が子供のころ(6歳までのあいだ)、ラディーノ語もドイツ語も解さない家のメイドたちと話すのに使っていた言葉はブルガリア語だった。けれど青年期にドイツ語を習得し、ドイツ語で作品を発表するようになっていった彼は、やがてブルガリア語をすっかり忘れてしまい、そのメイドたちとブルガリア語で交わしたはずの会話の思い出もまた、ドイツ語となって記憶されている……そういうカネッティの前半生ついてのおおまかな話を読んで、自伝三部作の第一作が気になっている。いま手に入れるなら古書になるだろう。 七か国語、八か国語が話される当時のブルガリアの言語の混乱、母からの厳しいドイツ語の指導のなかで、カネッティの言語がどのようにして「救われた舌(救われた言葉?)」となろうとするのか。そして救われた舌があるとするなら、その以前の、〈救われていない舌〉とはどのような場所は追い込まれてしまった舌なのか、それが気になっている。 海外に行ったり、大学でフランス人の先生と話したりして、たどたどしく英語やフランス語を話した記憶はある。そのとき話した内容は覚えている。しかしそこで「私がどんな英語やフランス語を話したか」を思い出そうとすると、それは日本語での記憶にすり替わってしまう。母語の記憶は不思議な体験だ。記憶は言語によって構成されている。そして自分のなかでいま生きている言語、もっともみずみずしい言語によって、記憶が思い出されるそのたびごとに、おそらく過去が再構成されている。
- Autoishk@nunc_stans2025年3月26日読んでる「私は母がこの最後の機会に事の真相をその目に映じた通りに述べたことを知っている。私たちの間には長く苦しい闘いがあったし、彼女がすんでの事に私を永久に遠ざけそうになったことも一再にとどまらなかった。しかし今は自分はお前がお前の自由のために行ってきた闘いを理解する、今はこの自由に対するお前の権利を認める、この闘いが自分にもたらした不幸など眼中にない、と彼女は言った。自分が読んだこの本[=カネッティの最初の作品である『眩暈』]は自分の分身だ、自分はお前のうちに自分の姿を認めるし、お前が描いた通りの人びとをつねに見てきた、同じことを、全く同じことを、できたら自分で書いてみたかった、と。自分が済まぬと思うのはそれだけではない、自分はお前に頭を下げる、お前を旧に倍して自分の息子と認める、お前は自分が最もあらまほしと思ってきたものになってくれた、と。」(p.93)