
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年4月1日

読み終わった
星野道夫の第二章、『ザ・コーヴ』の第三章を読み終わった。「エコロジカルな他者」として求められたネイティブ・アメリカン、エスキモーやインディアンが権利回復運動や土地所有問題のなかでそのイメージを逆利用したこと、にもかかわらずその「エコロジカルな他者」像が近代アメリカの求める理想像でありそもそもの先住民たちの生き方と噛み合っていなかった問題は、『リトル・トリー』の(悪い評価の)思い出とも重なって、興味深かった。「泣くインディアン」のポスターを演じた俳優が、自らをチェロキーとクリーの血を引くと主張しながら、実際はイタリア系移民の二世だったと考えられているというエピソードからは、フォレスト・カーターの出自の詐称のことを否応なく思い出す。
星野道夫もまた1970年代以降のヒッピームーブメントとからんだzenブームのなかで、自然を愛する日本人像としてフィルタリングされていたことは、自分がしばしば「日本人は自然を愛する」「自然がいっぱいっていいね」という価値観のなかで育てられていたこととも相まって、人が「外からのイメージ」をいかにまとおうとするのかを考えさせる。
親はしばしば私を山歩きや海水浴や農業体験につれていき、子供のころはそれらをそれなりに楽しんだが、一方で、行き帰りの車では本を読んでいたし、山歩きをしながらずっと本の話や空想の話をし続けて、もっと自然を見なさい、と諭されたこともあった。しかし私は本や空想やテクノロジーの話のほうが好きだったので、自然を愛する日本人になることには失敗した。そのような自然のイメージに両親の世代が感じている特別な愛着に共感することはむずかしかった。本を通して60年代、70年代、80年代を追体験することで、なんとなくその特別な愛着の気配には近づいていく。しかしそれもまたきわめてテクニカルに整理された愛の歴史にすぎない。剥製になった動物の標本を見て、キャプションを見て、その動物記に思いを馳せているにすぎない。
イルカやクジラに対する西欧圏のイメージの変化や、そこに大きな影響を与えているキリスト教圏における動物と人間の序列の問題、存在のステージの時間化の問題はおもしろかった。大田俊寛が近代のオカルト思想を霊性のステージの進化論的応用として考えた霊性進化論のタームと響き合うところがある。そしてSF小説でどうしてあれほどイルカやクジラが宇宙のイメージとリンクするのかという話も少し見通しがよくなった(きわめて雑駁に整理すれば、アメリカのイルカ・ブームは宇宙開発と同時代だった)。
「エコロジカルな他者」を、理想化された自然を体現する他者と言い換えるなら、昔は動物自身が、やがてインディアンやエスキモーが、そして次第にイルカやクジラがその役割を担わされていった歴史は、人間が自らにとってより理想的な他者を(自然保護のモデルケースを)探していった歴史だということもできる。そしてその理想的な他者探しは、他者のなかに自分自身の欠落や伸長を見出そうとする試みのために、どこかで奇妙な脱臼が起こる。しかし自然を失った人類という自己像のなかで、失ったはずの自然を外部に見出そうという試みは、実は最初の問題設定がかなりのところ物語的であるような気がする。われわれは本当に自然を失ったのか……というよりも、自然を失ったという物語がわれわれに深く刻まれてしまっているとするなら、それによってわれわれはどのように行為してしまい、どのように挫折してしまうのか。そのように、自らにない(とされている)ものを求めて手を伸ばす試みが、わずかにそのない(とされている)ものに触れた時、そこには快楽がある。しかしそれは子供が自分で隠したものを見つけて喜ぶような、心の底からのものであるとともに、きわめてフィクショナルで、どこかものさびしい快楽でもある。



