魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)

9件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年2月14日かつて読んだ(谷川俊太郎) ほくは詩を書きはじめたころに、詩を書く一番もとになる心的なエネルギーは何か、と漠然と考えたことがあるんです。そのころ思ったのは、それはいわゆる感情というものではないんじゃないかということなんです。いわゆる感情というのは、ある意味では非常に卑俗なものですよね。つまり他人に対して怒ったり、何かわかんないけど悲しくなったり………・。それは心理と言い換えてもいいのかな。そういう心理によって詩を書くのではなくて、それよりももっと奥のほうの、ぼくはそのころ仮に「感動」と呼んだんだけど、感動みたいなものによってであると。 つまり感動というのは、表面的な感情とか心理的なものは当然含んでもいるんだけれども、もっと深いものであるというふうに考えていたんです。 (p.245「感情表現、愛情表現をめぐって」) (谷川俊太郎) ところが、いまはそういう(神話的な)ものを非常に持ちにくくなっているという状態がありますね。神話的なものが生きていた時代は、詩人たちも、自己の深いところで他人と共通のものをわりと持ち得たという感じがするんです。いまでももちろん持ち得ているはずなんだけれども、共通のものというのがますます深いところに行っちゃって、そこまでなかなか到達できない。そこで、自己の深さの奥にある普遍性に到達する以前、つまり自我の段階で言葉をすくい上げていると言えばいいのかな。本当の自己ではなくて、一種の個別性の段階で自分の意識下の言葉をすくい上げてくるから、何か詩人一人一人が難解なことを書いて、お互いに孤立しているような状態になっているという感触があるんです。 (p.263 「「自我」と「自己」の間」) 「感情」とは、 自我(自分という意識)の表現、表出。 「感動」とは、 自己(包括的な自分)の表現、表出。 普遍的な響きと浸透力を持つのは後者である。 多様性が進めばそこに辿り着くための深さが増す。 そしてその「深さ」の分だけ、 その表現、表出に「深み」が伴うということ。 そこに辿り着くためには、深い呼吸が必要。 呼吸が浅ければ、途上で「感情」として消化されてしまう。 それが今の世相ではないかと思う。
swimmy@lilyswimmy2026年2月8日読み終わったユング派の異端児(と言っていいのかわからないが)河合隼雄氏と、ことばを操る天才・詩人谷川俊太郎氏の対談形式(講義録)。聞き手も話し手も話し上手なので引き込まれた。



