ルソーと人食い

ルソーと人食い
ルソーと人食い
冨田晃
共和国
2024年10月8日
2件の記録
  • 読み終えた。コロンブス以降さまざまな仕方でカリブの人々は偏見にさらされ、その偏見へのある種の逆張りの一環としてルソーはカライバ人たちを理想化し、日本の教育論はルソーを理想化し、そのところどころに誤読があり、議論の拡張があり、矮小化がある。 われわれがわれわれでないものを通じてわれわれの手元に何かを持ち込もうとするとき、われわれでないものが持っているものを、ほんらい自分の取り分であったかのようにして振る舞うことがある。そういう架空の喪失のプロセスのなかで、しかし、われわれでないものが持っているとされるもの、それ自体が、実は見なしや理想化、空想の産物であることがある。そうしてわれわれは時にどこにもなかったものを取り戻すことがあり、かつてあったことはないものを回復することがある。伝承にもアイデンティティにも擬制が忍び込む。そのプロセスは面白い。ブラジルで民族的アイデンティティを「人食い」の歴史に求めた芸術運動「人食い宣言」、その源流にあるブラジル文学のインディアニズモの話は興味深く読んだ(ブラジル先住民になんらかの人食いの習慣があった、というのは、一応歴史学としても共通了解であるらしい)。 章立ては全体的にけっこうアンバランスで、ルソーとカリブの関係に関する言及は実はそれほど多くなく(そもそもルソー自身がまったく生のカリブ人と接した形跡がないのであまり言及しようがない)、コロンブス以降のカリブの人々が植民地支配を通じて築いてきた苦しい歴史や、カリブの人々についてのヨーロッパの荒唐無稽な(しかし一定の影響力を持った)報告、カリブとヨーロッパ宣教師の交流の研究が大半を占める。セント・ビンセント島のカリブ人とフランス入植者の連れてきたアフリカの黒人奴隷が溶け合うことで生まれたブラック・カリブの歴史、やがてイギリス領となった島で、フランス語を習得したブラック・カリブの長が率いた大規模な反乱(それもまたフランス革命による奴隷解放を受けた、大陸側の影響によるところが大きかった)、そしてイギリスに敗北したことによるブラック・カリブの島外追放のくだりは坦々と書かれるものの非常に目を引いた。そしてホンジュラス沖のロアタン島に辿り着いた人々の子孫が、実はカリブの記憶を民族伝承にとどめるガリフナ人である、という歴史の語りには胸を打たれるものがある。しかし、このあたりになってくるともうルソーとも人食いともぜんぜん関係がない。 カリブの人々がヨーロッパとの交流のなかで支配者の言葉を得て、新しい概念を得て、自分たちを変質させながら生き延びていく。そのプロセスは苦しいとともに興味深い。私たちはどのように言葉を得て、どのように言葉を失い、何を記憶し、何を忘却するのか?
  • 小学生のころに読んだ学習漫画に、コロンブスが人食いの現地人に会って、現地人が「おいしいよ」と言いながら人の腕だか足だかを串焼きみたいにしたものを持っている、というシーンがあった(コロンブスは慌てて島から逃げ出していた)。戯画化され誇張された「白人ではない現地人」の絵柄とも相まって、子供のころの自分には、カリブ海と人食いの習慣が強く印象づけられた。どこかの土地、どこかの島には人食いを習慣としている人々がいる……一方で「人を食べる文化があるとしても、それはその土地固有の文化なのだから、いちがいに気味悪がったり恐れたりするものではない(ただし自分が犠牲にならない範囲で)」という戦後リベラル教育らしい〈寛容な〉異文化尊重の視点もまたあった。 しかし人食いという呼称が、実は「われわれは食わないが、やつらは人間を食う」という文化の他者に割り当てられるものであったことや、私たちの文化圏や西洋の文化圏にも実は宗教的儀礼や文化的見なしとしての人食いは広くあったことを通していくと、人食いの問題は、他者の問題、野蛮さの問題、自然の問題、そして「他者に投影する理想像」の問題になってくる。人食いがわれわれにとって常にある種の自分の姿であるとともに、常にある種の他者としてあらわれるとしたら、そうした他者へのおそれや寛容さ自体にひそむ恣意的な選り分けを再検討する必要が生まれてくる。 ルソーは日本の教育観、自然観、オカルト観にとても強い影響を持っている。そのルソーが、実際に行ったことがなく、文献だけで接した「カリブ」に勝手に託した理想像を解きほぐしていってみるのは、面白い経験になりそうだ。 ルソーはよく勝手に人に妄想を投影する。そして恐るべきは、近現代の社会のものの見方やシステムには、かなりのところ、ルソーが勝手に投影した妄想が反映され、実装されてしまっていることだ。
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