笑い

笑い
笑い
ベルクソン
光文社
2016年6月9日
5件の記録
  • 薄荷
    薄荷
    @peppermint
    2025年9月29日
  • しょうD
    しょうD
    @syou_D
    2025年9月27日
  • CandidE
    CandidE
    @araxia
    2025年9月1日
    昔やんわり読んだ、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を、この数年なぜか読まなきゃ、とずっと頭の片隅にあると同時に、ベルクソン『笑い』も読まなきゃ、という思いがあった。理由はひたすら不明だが、無理やり言語化すると、「遊び」も「笑い」もルール・枠があって成立する、けれども近ごろは、その枠を設けるコストが異様に高いみたいな社会になっていて、遊びがない・笑えないという様態が散見される……みたいな、雑で抽象的な生活上の違和をしばしば感じるのである……みたいな。 さて、本書における笑いの定義は、ざっくり以下。すなわち「笑い」とは、社会という集団が、ルールから少しズレた個人の「機械的な硬直」を目ざとく拾って、知的な距離(=非共感的観察)を保ちながら、「それ、君だいぶ道迷てるで? 設定おかしない??」と軽くツッコミを入れることで軌道修正を促す社会的装置である。 「ベルクソンは笑いが起こる理由の探究へ進んでいく。そこから導き出されるのが、自然な柔軟性のなかに出現する機械的な硬直性、という現象だ。どういうことか。ベルクソンによれば、人間には外界への可塑的な対応能力が本来的に備わっている。(中略)しかし、その能力が何らかの事情によって十全に発揮されないとき、わたしたちは周囲の情況を適切に知覚できず、あるいは適切に知覚していても有用な反応を返すことができず、惰性的に行動して失敗を招くことがある。(中略)そして、そうして失敗した人を目の当たりにするとわたしたちは笑う(中略)これらは総じて「注意深さ attention」を欠いた状態といえる(中略)そうした状態にあるとき、わたしたちは自らが直面する事柄の個別性に配慮することなく、ひたすらお仕着せの仕方でそれを処理しようとする。そこに感情の働く余地はない。あるのは自動的な作用だけだ。あたかも職人による手作業が工場での流れ作業に取って代わられるかのように、特異なものは一般的なものへ還元される。ベルクソンは笑いの本質と機能をこうした還元のプロセスに見出すのである」 ーー解説より この「矯正としての笑い」に内在する暴力性については、個人的に、バフチンの「カーニバル」やK・ローレンツの「攻撃本能」、ジラールの「生贄」あたりが想起される。接続する議論はすでに多いようで、いつかざっとお勉強したい所存。 また本書は、 「『笑い』はベルクソンの著作群のなかで最もポテンシャルの高い著作、ベルクソン哲学の可能性が最も豊饒に秘められた著作として、興味の尽きない価値を有しているように思われてくる」 ーー解説より とあるように、『物質と記憶』から『道徳と宗教の二源泉』におけるベルクソンの思想全体を横断する動脈としての資質的文脈を孕みつつ、フロイトの「機知」やバタイユの「非-知(le non-savoir)」にも繋がる結節点でもある。ただし、実用の観点として笑いの技術を学ぶには、作中で参照される喜劇作品の予備知識がないと無理なので、その辺は悪しからず。
  • あ
    @i_am_not_yeti
    2025年4月3日
  • 字は衣
    @gbs83169
    1900年1月1日
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