サブリナとコリーナ
13件の記録
DN/HP@DN_HP2026年6月6日「この土地に丸ごとのみこまれそうな気がしたことない、シエラ?この美しさがぎゅっと迫ってきて、ガラガラヘビの口のなかにいるみたいな気がすることない?」 「こんなのいつも見てるもん」とわたしは答えた。「それに、生きたままなにかに食べられる気分になんかならないよ」 母はわたしをちらと横目で見た。「そのうちそう感じるよ。もしかしたらわたしのときより遅いかもしれないけど。子どもを持つとそんなふうに感じるものなの。結婚。人生。そういったこといろいろ」 ——「シュガー・ベイビーズ」 根底にたしかにテーマを流しながら、短編小説としての軽やかさのようなものを失うことがない書き方。好き。 物語のなかのラジオから流れていそうなオールディーズとか流しながら読んだ。



DN/HP@DN_HP2026年6月5日荻世いをら『彼女のカロート』の巻末に収録されていた江南亜美子さんの「新たな感覚器官で読む物語」という文章が素晴らしくて、他の書評も読みたいな、とインターネットで検索したらこの大好きな短編集についても「ラティンクスの声に惹かれ、啓かれて」(新潮社の商品ページで読める)という文章を書かれていて嬉しくなった。 大好きな短編集といったけれど、その中でも特に好きな一編ばかり読み返していたから、このタイミングで通して再読してみたい。 —— 「彼女の名前をぜんぶ」 『孤独の要塞』のグラフィティの描写を読みながら思い出していた、心のアンソロジーの中盤にも収めている一編、コロラド州デンバーに住む女性ライターの物語をまた読んでいた。 望まない二度目の妊娠を知った日、まだ愛している昔の恋人と共に操車場に忍び込み、貨車に自分の“名前”を描きにいく。両親につけられた名前でも、夫や昔の恋人が呼ぶあだ名でもなく、自らつけた「K-SD(読み方はCased)」という名前を。 彼女はその名前が、読み方とは裏腹に路線の「見事なルートの広がり」に乗って、デンバーから、ワイオミングやカンザスにユタ、カリフォルニア、「そんなに遠くまで行くという考え」を気に入っている。それに、列車が家の近くを通るたびに、そこに名前が描かれているかもしれない昔の恋人のことを思い出すこと、自分のことを思い出してもらうことも。 道標を見失い、街と人生に囚われ迷子になったような彼女の物語は哀しくて「やるせない」けれど、あるいはだからこそ、グラフィティに託している想いはとてもロマンティックだ。そもそも、”ストリート“から生まれたカルチャーにはどれもロマンティックな側面がある。少なくとも外からそれを観ている分には。 そんな話をあるライターにしたことがある。この短編をはじめて読んだ数日後、北の方へ向かう車中。「グラフィティってめちゃくちゃロマンティックだと思ったんですよね……」「グラフィティはロマンティックですよ」ああ、やっぱり、と思ったその会話もまた、ロマンティックな物語の一場面になりえたかもしれない。大好きな一編を読みながら、そんなことも思っていた。
DN/HP@DN_HP2026年3月5日『Train Yard Blues』というCROWN OF THORNZのミニアルバムのタイトルをみて、この短編集に収録されている「彼女の名前をぜんぶ」という一編をまた思い出している。 「マイケルとアリシアは金網のフェンスに人間の体くらいの隙間ができているところで足をとめた。ユニオンパシフィック鉄道操車場の全景が見えた、列車を北はワイオミング、東はカンザス、西は山道や吹雪で前が見えなくなったりする谷を越えてユタまで送り出す見事なルートの広がりだ、旅はカリフォルニアの陽光のもとで終わる。アリシアは自分の名前がそんなに遠くまで行くという考えが気に入った。アリシア・デル・トロ・パーカーではなく、「K-SD」(読み方はcased)という自分のタグネーム(グラフィティ用の名前)が。マイケルはアリシアの手を取ろうとしたが、彼女は払いのけた。彼女は苦もなくよじ登って入った。彼も続き、フェンスが揺れた。」 Train Yard Blues

DN/HP@DN_HP2026年3月5日「二人が昔知っていた子が操車場で死んだ。彼は十六をちょっとすぎたくらいの年だった。夏の最中の、夜のまだ早い時間だった。警官はパトロールに出ていなかった。その子は列車にペイントしていて、一歩後ろに下がったところを一台の貨車に轢かれた。仲間のあいだに噂が広がり、たちまち若者たちがその未完成のサインのところへやってきて、自分たちの願いを黒でペイントした。詩が現れた。どうか君の旅が果てしないレールを行くものでありますよう/君の列車が走り続けますよう/君の名前が、戻ってきた君の手で完成されますよう。」 ——「彼女の名前をぜんぶ」 ……train yard blues







DN/HP@DN_HP2025年4月28日『孤独の要塞』のグラフィティの描写を読みながら思い出していた、心のアンソロジーの中盤にも収めている一編、コロラド州デンバーに住む女性ライターの物語をまた読んでいた。 望まない二度目の妊娠を知った日、まだ愛している昔の恋人と共に操車場に忍び込み、貨車に自分の“名前”を描きにいく。両親につけられた名前でも、夫や昔の恋人が呼ぶあだ名でもなく、自らつけた「K-SD(読み方はCased)」という名前を。 彼女はその名前が、読み方とは裏腹に路線の「見事なルートの広がり」に乗って、デンバーから、ワイオミングやカンザスにユタ、カリフォルニア、「そんなに遠くまで行くという考え」を気に入っている。それに、列車が家の近くを通るたびに、そこに名前が描かれているかもしれない昔の恋人のことを思い出すこと、自分のことを思い出してもらうことも。 道標を見失い、街と人生に囚われ迷子になったような彼女の物語は哀しくて「やるせない」けれど、あるいはだからこそ、グラフィティに託している想いはとてもロマンティックだ。そもそも、”ストリート“から生まれたカルチャーにはどれもロマンティックな側面がある。少なくとも外からそれを観ている分には。 そんな話をあるライターにしたことがある。この短編をはじめて読んだ数日後、北の方へ向かう車中。「グラフィティってめちゃくちゃロマンティックだと思ったんですよね……」「グラフィティはロマンティックですよ」ああ、やっぱり、と思ったその会話もまた、ロマンティックな物語の一場面になりえたかもしれない。大好きな一編を読みながら、そんなことも思っていた。


DN/HP@DN_HP2025年3月24日少し涙ぐみながらラルフィ・パガンの『Brother Where Are You』を聴いていたら、この短編集に収録されている『彼女の名前ぜんぶを』という短編を読みたくなっていた。そして、その短編を読んだら、また別の長編小説のあるシーンが読みたくなってきた。読書は続く。

DN/HP@DN_HP2025年3月6日再読中読書日記チカーナコロラドデンバーグラフィティ「彼女の名前ぜんぶを」という短編 年上の夫の子を妊娠していると知った日、昔の恋人で今も愛しているマリファナ調剤薬局のマネージャーと彼のローダウンしたシボレー・ノヴァに乗り込み、ボタニカで堕胎の薬草を買い、貨車にグラフィティを描くために鉄道操車場に忍び込む。コロラド州デンバーでの話。 「アリシアは自分の名前がそんなに遠くまで行くという考えが気に入った。」 「作業は奇妙な感じだった。アリシアは仕事で数えきれないほどデザインをやっていたが、列車となると、人知を超えた動力が彼女の手を動かした。自分のサインが、あたかも汚い金属の下から自分の手で露わにしたかのように現れるのを見るという感覚をアリシアが経験したのは、一度ではなかったし、ひとつの場所だけでもなかった。」 文芸誌で知って読みたかった短編小説の目当てのシーンは「孤独の要塞」のあのシーンみたいにとても良かった。「ネイビー・ブルーの署名」と「湿った紫色の返事」。 ここ(と全ての短編)に書かれているのは、土地や歴史、社会と”民族“、コミュニティ、それに性別、たくさんのものが交差した地点に立つ彼女たちにまとわりつく哀しみや悲劇、やるせなく、ままならない、語られてこなかった日常。 妊娠を知り同時に堕胎を決意した日、元恋人とグラフィティを描きに行くのも件の文芸誌では「奇怪かつ切実」と書かれていたけれど、それも含めてやはり日常。そして、そこには小さいかもしれないけれど喜びや楽しみ、幸せの瞬間もたしかにあって、伝統文化に度々救われることがあるように、ユースカルチャーやアートがそれをもたらすこともある。 そのシーンの終わりには選択と別れがあったけれど、貨車に書き始めたグラフィティも、彼女の人生も、物語だってまだ「終わっていない」から、そこには可能性と希望もある、そんな気がした。そんな風に思いたかった。 こういう短編集を読むと、いつもルシア・ベルリンの名前が思い浮かんでしまう。その土地に住み続けるか、各地を転々とするか、その違いはたしかにあるし重要だけれど、たくさんのものが交差している地点に立っている、そこから世界を見ているという点では共通するものがあるのでは、などとも考えてみている。 幾つかの短編は、デンバーとは少し離れているけれど、サン・アントニオで聴かれていたであろうチカーノ・ソウルを集めたコンピレーションを流しながら読んだ。とても良かった。物語のなかでもこんな音楽が流れていたら最高だな、と思ったけれど実際にはカントリーがよく流れていたりして。そして「スティーリー・ダンの(…)音楽はわたしたちの暮らす地区のサウンドトラックみたいだった」なるほど、と思ってその後に言及されている「ダーティ・ワーク」を聴いてみると、こちらもなかなか良かったのだった。 これはチカーナ文学。そう言い切ってしまいたい気もしてしまうけれど、それもまたラベルを貼ることになってしまうから、これはとても素晴らしい短編集。そうとだけ言っておきたい。




