人間関係を半分降りる

3件の記録
- 福藻@fuku-fuku2024年10月1日読み終わった社交不安障害、いわゆる対人恐怖症だった著者が、どうしてこの社会は息苦しいのか、どうすれば気楽に生きられるのかを自身の経験から綴る。 対人恐怖症「だった」ということは、現在はその心の病は彼のものではない。フリーライターになり、オフィスや教室のような“人の詰まった場所”に通うのをやめたことが転機だったようだ。その環境の変化で話の合う友だちが格段に見つかりやすくなり、病はいつの間にか消えていたという。 “人の詰まった場所”には、否定的な視線が満ちやすい。「みんな同じ」が強いられるから、人からどう思われるかがまるで最重要事項かのように扱われてしまう。 私も集団にはことごとく馴染めない。他者の言動や容姿をジャッジするモワッとした空気が生まれ始めた小学4年生あたりから、教室の笑い声は全部自分を嘲笑する声に聞こえるようになった。中学は教室にいることもできなくなったし、高校でもなお「ウケる〜!!!」とか「キモッッ!!!」とか聞こえるたびに胃のあたりを握りつぶされるような感覚は治らなかった。 高校時代、教室の喧騒が届かない場所を求めて、図書室に逃げ込んだ。そこで初めて、私の声を、私の声として受け取ってくれる人と出会った。俳優のもたいまさこにそっくりな、口数少ない図書の先生。私の声ってちゃんと聞こえるんだ、と思った。初めての居場所だった。 「ある集団を自分の居場所だと思えるためには、 条件がある。単に人とのつながりがあればいいわけではない。それが、ありのままの自分を受け入れてくれるつながりでなければ、そこは居場所とは呼べない」 (本文より) 著者は、「不適応者の居場所」という集まりをひらいている。何をするかというと、飲食をしながら座って話をする。それだけだ。でも、それだけじゃない。会社や学校や家庭でうまくやれない時の逃げ道になる。ただそこにいてもいい、いるだけでいい、そんな居場所があったなら、どれほど楽になれるだろう。 そんな場所がずっとほしいと思っていた。どこかに、同じような思いでいる人がきっといるんじゃないかとも思っていた。だから読書会をひらいている。高校の図書室のような、普段はかき消されてしまう声の届く場所を目指して「ちいさな声の読書会」と呼んでいる。 ずっと黙って、じっとして、うまくつながれないまま生きてきた不適応者でも、つながりを諦めなくていいはずだ。