終わりなき日常を生きろ
3件の記録
J.B.@hermit_psyche2025年12月8日読み終わったオウム真理教事件という未曾有の社会的破綻を、個別の狂気や異常性へ回収する誘惑を峻拒し、私たちが生きているこの日常そのものは、どのような構造をもって人を引き裂いたのかという問いへと読者を強制的に送り返す書物である。 本書を読むことはオウムを理解することよりも、むしろオウムを生み出し得た社会――より正確には、我々一人ひとりが生き延びている意味を失った日常を思考の俎上に載せる行為にほかならない。 宮台が提示する中心的視座は、近代以来人間を支えてきた未来という観念の失効である。 ここで言う未来とは単なる時間的前進ではなく、現在を犠牲にしてでも賭けるに値する物語、すなわちユートピア的構えである。 高度経済成長とともに日本社会を動かしてきたこの未来志向はバブル崩壊以前からすでに空洞化し、1990年代にはほとんど死語になっていた。 人々はより良い明日を信じるのではなく、今日を無難にやり過ごすことに最適化された生活様式へと適応していく。 宮台が言うところの終わりなき日常とは変化も終局も賭けもない、ただ反復される現在のことである。 この日常は平穏に見えるが、実際には強度な疲弊をはらんでいる。 なぜなら意味や価値が先取りされない状況では個々人は常に自己決定を強いられ、その決定が何に回収されるのかも分からないまま生きることになるからだ。 選択の自由は祝福としてではなく消耗として経験される。 こうした状況下では感情は抑制され、他者との関係は安全管理的に処理され、世界はリスクを最小化する対象へと矮小化されていく。 宮台は、この感情の平板化と関係性の縮減こそが終わりなき日常の最大の特徴であると見抜く。 そのような日常において人は突如として訪れる意味の過剰に脆弱になる。 オウム真理教が提示したのは、世界の終末、選ばれし者の救済、究極知への到達といった、極端なまでに濃度の高い物語だった。 それらは合理的に見れば荒唐無稽であり、危険極まりない。 しかし日常があまりにも意味を欠いているがゆえに、その過剰さ自体が魅力として立ち上がる。 ここで重要なのは宮台が信者たちを洗脳された犠牲者としてのみ描かない点である。 彼らはむしろ自らの生を賭けるに値する何かを必死に探していた者たちだった。 本書の方法論は厳密な社会学的実証というよりも、現場感覚と理論的直観を往復するスタイルをとる。 インタビューや文化分析、さらには創作的対話すら交えながら、宮台は一つの仮説群を積み重ねていく。 その語り口は挑発的で、しばしば断定的だが、それは読者を納得させるためというより、思考を中断させないための装置として機能している。 論理の飛躍が見られる箇所も確かに存在するが、それはこの書が最終的説明を与えることを目的としていないからこそ許容される。 ここで提示されているのは結論ではなく、考え続けるための足場である。 特筆すべきは若者文化や消費社会の分析と、宗教的・政治的過激化の問題を同一平面上で扱っている点だ。 宮台は女子高生文化やサブカルチャーに見られる行動様式を、決して軽薄なものとして切り捨てない。 そこには意味なき日常をサバイブするための微細な戦略が刻まれている。 同様にオウムへの傾倒もまた、極端ではあるが同根の生存戦略として読まれる。 この視点の移動によって善悪や正常/異常といった二項対立は崩され、問題は社会全体の構造へと引き戻される。 読後に残るのは不穏な問いである。 もしオウムが特殊な逸脱ではなく、ありふれた日常の裏面なのだとしたら、私たちは何をもって安全だと言えるのか。 どの程度まで意味を削ぎ落とした社会が、人を破壊的な物語へと追い込むのか。 本書はその問いに答えを与えないが、答えを探し始める責任を読者に明確に委ねる。 結果として『終わりなき日常を生きろ』は、1990年代という特定の時代に書かれながら、その射程を現在にまで延ばし続ける書物となっている。 今日のSNS的自己演出、即時的承認経済、絶え間ない情報消費は、当時よりもさらに加速した終わりなき日常を私たちに課している。 その意味で、この本は過去を分析する書ではなく、現在を診断するための危険な鏡である。 オウムを理解したい人のための本ではない。 オウムを生み出さない日常が、果たして可能なのかを自分自身に問い返す覚悟のある読者のための、厳しく純度の高い思考実験である。
ivory79@ivory792025年4月12日読み始めた読み終わった"つまり「知識人」とは「コトバでハイになれる(コトバがないとハイになれない)変なやつ」になったのだ。かつては ありがたかった彼らの「ご託宣」も、いまや、特殊な人格資源と結びついた、特殊な 自己維持戦略の相関物にほかならなくなる。"(p131)
