塚本邦雄
4件の記録
49☕️はあまり読めない@shijuku492026年4月22日読み終わった“なぜか凄まじく苦手意識を感じる作家”として、塚本邦雄がいる。 なぜ?彼が紡ぎ詠い確立した世界が、あまりに峻厳すぎるせいか? その峻厳さに対しての“気まずさ”と、「自分はその玲瓏な世界には属せない」という疎外感と、「自分はこうはなれない」という深い無力感と苦しいほどの憧れが溢れて、もうどうしようもなくなる。素直に愛しきれない。苦手だ。 古風なディレッタントやダンディや美学者の常として、作中でミソジニックな表現が現れる傾向がある。それを認めつつも、49はそんな美学者たちを愛でるのを好んではいる。 しかし「文学者としての塚本邦雄」の場合は、 ・彼にとっては硬質で美しい虚構世界が至上であり、彼が惡(にく)む“生”“生殖”“現実生活”“調和を壊す存在”と、女性がほぼイコールとして繋がっていること。 ・彼の魂の拠り所は“靑年”であることが多く、男同士の完璧で美しい世界において、現実世界や腥い生活(=女性)は排除されるべき存在であること。 ・現実世界で異性愛や家庭を持つことばかりが掲揚され、同性愛が認められていない時代であるため、“反現実の表現”として上記の内容に より拍車がかかっていること。 (これはクィア文学としては至極まっとうとも言える。塚本邦雄は反戦や反天皇など苛烈な社会批判の歌人である。) ……などなど、彼が創る世界の根源たる“反現実の美学”とミソジニー描写が呼応していて、読んでいてかなり“気まずさ”を感じる。ココに拒絶感を感じる向きもあるだろう。 なんというか、同じ戦後美学者作家として澁澤龍彦や須永朝彦や三島由紀夫はまだ穏やかな方だったんだなと……。作品内で女性を女神や象徴に祀りあげたり物品扱いして愛でたり軽んじたりする(要は対等に見ていない)のも、まだその世界の一部として受け入れてる方だったんだな、などと思ってしまった。それらの作家の作品世界には(時代的に引っかかる点は数多あっても)“畏れ”までは感じず楽しく読めるので。 (この中では、三島は女性キャラへの憧憬を垣間見せたりもするし、生き生きとした女主人公を描いたりもする。須永朝彦は女性キャラに対しては手心を加えている方だと思う。あくまで比較的だが。) それに彼らは自分の世界を読者に開いてくれている。膨大な知識や一流の美学、感覚、この私の世界を披露しよう、案内してさしあげようという意識は感じる。 しかし塚本邦雄は招いてはくれない (新聞連載モノの文章であっても!)。排他的、閉鎖的と言えるほどに俊烈な言葉で自分の世界を創ろうとしている、と感じた。少なくとも49にとっては。 『紺靑のわかれ』初読時は、「とてつもなく美しいが、なんとなく自分には合わないかもしれない」と一旦本を閉じた。畏怖すら感じた。なぜここまで苦手意識を感じるのか、自分でもよくわからない。ただ単に上記のような描写に挫折したわけでも、難解な衒学趣味に辟易としたわけでもない。ではなぜ? 49がうっすら“怖さ”を感じる近代作家として、他には坂口安吾がいる。だが安吾の方は、軽妙で精力的な無頼性と、しかし深く知れば知るほどその精神が冷たく底知れぬことを感ぜられてなんだか怖くなってくる……というギャップのせいだと思う。作品自体は小説も随筆も楽しく滋味深く読める。 塚本邦雄はそれとはまったく違う。 「自分は絶対にあの人のようにはなれない。あそこまで至れない。そんな自分に、一体何の価値があるというのか。」という無力感に陥ってしまうのが怖くて、いっそ近づきたくない。歌集でも短編集でも覚悟を決めないと読み始められない。一編ごとに休み休み読まないと、自分の中の何かが辛い。だがこの作品内の空気だけ反芻していたい。 もし彼と同じ時代に生まれていたら自分はどうしただろうか?歌誌『玲瓏』にはおそらく参加したいとも思わないだろう。そもそもできない。新作は毎回買うだろうか。いっそ距離をとって次第に買わなくなるかも知れない。同じ時間、同じ地平の先にいる彼を意識し、絶対に至れないあの世界には属せないと感じつつ何を抱えてどう生きるのか。1950~80年代の日本を。あまり想像したくもない。 そういう意味では後世の人間でよかった。ただもっと未来に生まれて「古典の偉大なる歌人・作家」として彼を眺める方が精神衛生的に楽だったかもしれない。 (“楽になる”とはなぜ?時代の隔たりの距離によって変わるようなものなのか?49の何かしらの感情は作品世界ではなく筆者本人に向いているのか?) この感情が何なのかはやっぱりよく分からない。 苦手だ。自分は一体 何を求めているんだろうか。



