エスの系譜 沈黙の西洋思想史
3件の記録
- シンゼン@shinzen2026年3月22日読み終わったEsの系譜、フロイトがエスをあくまで自我と対立するものと設定したところから、なぜそのような設定が必要化を系譜的に辿る。 さすがの博学だが議論的には言及しなくてもいいのではと思う人物もかなりいた。 フィヒテの事行や世界霊、心霊主義などを国家の形成期に伴奏させ、Esは民族精神や伝統などといった統一的かつ排斥的な源泉として機能していたという仮説は面白い。この個人の自我と民俗的自我を結んでしまうことへの対抗としてフロイトの「モーセと一神教」を読んでいる。 語られるものと語るものの違い。語られてしまえば、すでにそのEsは語られた対象になってしまい伝達可能なものである。だがEsはその定義を逃れるからEsが語るしかない。語られたものとしてのEsは言語化できるが、語るEsは常に言語化を裏切る。ハイデガーの開けつつ、伏蔵する存在と同型の議論。 フロイトはこの差異を保存しようとして、モーセと一神教でモーセをエジプト人とし、語られ続けるユダヤの伝統と純粋に一致しない人物として書き出したと読解する。 こうした読解の中で問題なのは、「それが私の中で思考する」時の、自我の発生、必要性の問題なのだが、神やヒューマニズムに陥ることなく、この自我を擁護することができるのか。第二のエスの系譜(起源の正統化としてのEs肯定)と第一の系譜(Esを語ることの不可能性)の違いの中で自我の要請の問題が宙に浮いたように感じた。経験的自我の錯覚性をいった後、Esの言及の不可能性のために自我が再び要請されるのなら、それはヒューマニズム以外の何者でもない。なぜ人間がその不可能性を経験しなければならず、語らなければならないのか。言語の経験を超越論的次元に持ち込んでいるのではないかと批判が可能である。 総じて我と汝の根源語の発生の問題をブーバーが根源的に神に結びつけているのは、我が保証なしには正当化不可能な概念だということだ。すなわち言語以前のEsに言語を持ち込むことも言語の保証を誰かが始めいている詐術的な系譜学にすぎない。 Esの第一の系譜を擁護しようとしてフロイトからも自我の要請の問題からも離れてしまった印象。 あとがきで触れられていたデリダの著作は「時を与える」だろう。
よろこびイサンディ@yorocobi_isandy2026年3月12日読み終わった「あとがき」に記載されている通り、著者は本書において、何が書きたかったのか、自認されている訳ではなかったようだ。 この手の本は冒頭の50ページこそ、難しくなる嫌いはあるものの、読み進めれば、進めるほど、文章に書き手の熱が宿り、読み応えが増していくことが多い。 ただ、本書は「エピローグ」が他の章と比して難しく、これは著者自身が書きたいことが明確でなく、落とし所を探りあぐねた、或いは腐心の結果、と言えるのかもしれない。 20世紀にドーキンス博士の考案した「遺伝子の乗り物としての生物」のように、19世紀の思想にはエスが哲学者の思想を乗り換え、変遷していった、と言うことを感想に書こうと思っていたが、それほど、大層なものでもない印象を、最終的には受けた。 國分功一郎氏の名解説を読むことができたのは、冷めた読後感を温めるのに余りある体験だった。 國分氏の文章を読んでいると、明快な知性とはどのようなものか、ということが分かる気がする。
よろこびイサンディ@yorocobi_isandy2026年2月25日読んでる心理学用語の「エス」との言葉を聞いて、諸賢に於かれてはフロイトが想起されるだろう。 人の心の原始的な欲望を表す部分を指して、そう呼んだ。 ただ、その術語は、フロイトにとって近しい人が発案した概念の剽窃だった旨の疑いが、この本の冒頭部に記載される。 剽窃の被害者だったグロデックなる人においても、「エス」をニーチェから引用していて、それ故、問題は大きくない、というのが、フロイトの弁明であったようだ。 「エス」と言語化されて、フロイトの手によって、『自我とエス』という形で1923年4月に刊行されるまでの思想的な流れ、或いは系譜を追った本だと言える。 その流れを追う過程で、源流としての哲学者デカルトや、思いがけず、詩人ランボーにまで話は及ぶ。 國分功一郎との共作で『いつもそばに本があった』をコロナ禍前に読了していた記録があるから、その頃から著者について、知ってはいたが、『連合の系譜』なる浩瀚な書を著されたことから、俄然、僕の個人的な興味の対象となった。 興が乗って、熱く書いていることが想像される部分は、読み進めていて、とてもおもしろい。 楽しい読書になる気がしている。 できることなら今月中に読み終えたい。