

よろこびイサンディ
@yorocobi_isandy
- 2026年7月5日
読み終わったあとがきに記されているように、二十代の頃に書かれた文章も本作にはあるらしい。 多くの物書きに類似した傾向ではあるけれど、若かりし日に書かれた文章というのは、どうしてこうも読みにくく、人を寄せ付けぬ感じがするのだろう。 そういった寄せ付けぬ傾向のある作品も収録されているものの、文芸批評的なる文章を集めてきたという本作は、前半部までは楽しく読めた。 言わずと知れた社会学者であり、多くの読者を獲得している大澤氏であるからこそ、畑違いの分野についての文章であっても、15年以上の歳月を越しても絶版とならないのだと思う。 氏の文章は独特で、ともすればスノッブな感じさえ漂う。 氏が師事した見田宗介にも時勢に対する見解を、ただ集めただけの著作があったが、それと似たような読後感だった。 個人的に大澤氏の著作を何冊か読了しているけれど、やはり真骨頂は社会学的なる著作だと思う。 端役のようであり、また、骨の折れる本作より前に読むべき著作はありそうだ。 - 2026年6月29日
みみずくは黄昏に飛びたつ川上未映子,村上春樹読み終わった文庫版のための対談も含めるとすれば、5回の対談が収録された本書は、ともすれば、一貫した物語を胚胎している気さえしてくる。 4回目の対談は村上春樹の自邸で執り行われ、そこでの川上未映子のあまりに容赦のない、ややもすれば、無礼とも取れる程の率直な質問に、村上春樹は少々、たじろぎつつも、誠実に回答しているように僕には見受けられた。 それまでの3回の長いインタビューの積み上げによる達成であり、或いは双方がそれぞれの方法でそれぞれの小説に向き合ってきたインタビュー以前の時間と、その間の試行錯誤の蓄積が香り立つ豊穣となって、ページから立ちのぼっていた。 村上春樹の書き方がスタンダードではないのかもしれないし、スタンダードたり得ないが故に世界的な小説家としての確固たる名声を築いたのかもしれないが、彼の書き方について、彼自身が語った箇所は実に神秘的であった。 村上春樹の新作が刊行予定の夏にあって、本書を読み始めた頃、僕はその報を知らなかった。 ただ、今週末に迫った刊行予定日に、本書を経験した僕は書店に行くだろう。 ティーンエイジャーに読み耽った村上春樹の著したフィクションに再会し、如何なる感想を抱くのか。 今からとても楽しみなイベントである。 - 2026年6月28日
増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる朱喜哲,杉谷和哉,谷川嘉浩読み終わった文庫版になって追補された終盤の3つの章では、題名にもなっている「ネガティヴ・ケイパビリティ」の文言が頻出されていて、それによって、理解が定着した感はあり得る。 そう込み入った概念ではなく、一文のみで端的に記載されている箇所も多くあった。 言い淀み、立ち止まり、思考すること。 当世風ではないその概念の周辺について、様々な例を示しつつ、語り続けた結果が本書だった。 例えば、ベン図における補集合を多くの具体例で埋めていき、集合としての「ネガティヴ・ケイパビリティ」を顕現していく。 その迂遠とも取れるあらわし方こそ、不器用な「ネガティヴ・ケイパビリティ」を具現化しているのかもしれない、と思った。 個人的には、言い淀み、立ち止まるタイプの人間である。 それ故、「本書を読み、自己肯定感が上がった」としてしまえば、本書の意図にそぐわない程に短絡的な感想となってしまう。 言い淀み、立ち止まってはいるが、そこに深い思考が伴って来ない僕は、もっと読書を進めていこう、との決意を新たにした。 読みさしの際の印象から、かなりの好印象へと転じた。 今月中の読了を迎えられて、安堵している。 - 2026年6月21日
増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる朱喜哲,杉谷和哉,谷川嘉浩読んでる時代の趨勢なる風をいっぱいに帆へ受けて、快調に全速力している文芸評論家が何かの動画で紹介していたような朧気なる記憶があった。 書店で本書を見た際、文庫化されたのは、この文芸評論家の仕業であるところまでは推察が及んだ。 鼎談が為された当時、三者は皆、30代だった。 30代前半がふたり、30代後半がひとり。 30代前半だったふたりは、僕と生まれ年が同じだ。 ネガティヴ・ケイパビリティを題名に掲げているが、それについてばかりの具体的な会話、ということではない。 本書を読みさしにして、ふと離れている時間に「あの本は確かにネガティヴ・ケイパビリティについて書かれている」と思い至る、といった具合の俯瞰した気づきを必要とする。 個人的な前提を踏まえれば、併読している村上春樹と川上未映子の対談本に比すれば、何かと深度が浅い印象を受ける。 (そう、僕は今、対談本と鼎談本を併読している!) 以前に読了した対談本のことではあるが、適当に調子を合わせて、権威者にへりくだる嫌いばかりが目立つ作品よりは、幾分か読み応えはある。 至極、読みやすい。 読みやすいのは、必ずしも悪いことではない。 読了は来月になるのではないか。 - 2026年6月13日
みみずくは黄昏に飛びたつ川上未映子,村上春樹読んでる村上春樹でさえ、読み通せないのが現代人と喧伝する書き手がメディアに、この頃、頻出している。 俄かには信じ難いと現在の高みから物言いこそすれど、思い返せば、中学時代には村上春樹は大人の物語だった。 その翻訳調の文章は、或いは今の僕にも通奏低音の如く連綿としているのではないか。 近頃、遠ざかっていた村上春樹の著作を、彼のラジオ番組を聴く習慣が定着してから、欲していたのかもしれない。 久しぶりに新潮文庫の棚に立ってみれば、購入から読み始めるまでに、さ程の時間は要さなかった。 村上春樹が昭和から平成の時代を象徴するとすれば、平成から令和の時代は川上未映子のものという言い方は大仰ではないだろう。 ある深度まで達した小説家同士の対話は、読み応えがある。 サラリーマンとしての僕が感ずる読み応えは、本業に没頭する時間から産出される訳ではない。 歩み得なかった人生への憧憬から来るのだと思う。 450ページは超えるけれど、時間を掛けずに読み終えたい。 ただ、業務が慌ただしく、平日の読書時間確保は絶望的だ。 来月には読了を迎えられるだろうか。 - 2026年5月24日
読み終わった未来がどのように推移するか、によって、歴史の意味合いが変わってくる。 ある種の常套句のようにして、そのような言葉が語られてきた。 ここのところ、若き名うての経済学者の登場以降、マルクス主義的な思想は、少なくとも日本社会においては再興して来ている。 その趨勢も環境問題への関心が高まりを見せる時代の要請でもあるのだろう。 本書に記載のある事柄から帰納的に考察すれば、社会主義が敗退したあとの時代について、幾分か知ることができ、僕がこの本から受けた最高の恩恵は、90年代からゼロ年代までのそういった時代の空気を感じ取ったことだった。 僕もそのような時代を多少なりと知っているが、イデオロギー対立の敗者として、また、敗退するにあたり、独裁者が為した悪事の数々が白日のもとに晒されたことによって、大衆がアレルギー反応を示す時代が、ゼロ年代までは確実に横臥していた。 この本は、その時代の空気を如実に反映した一冊だった。 著者の筆の力がとても濃厚で、読み手を力強く読了まで牽引してくれる。 それ故、読みさしにしている他の本を差し置いて、読了となった次第だ。 末筆に蛇足ではあるけれど、生成AIが文章を渾々と吐き出す現代にあって、かような書き手は、もう生れ出づることはないかもしれない、という一抹の憂慮を感じたりした。 - 2026年5月17日
読んでる先だっての帰京に際し、吉祥寺のよみた屋という古本屋で入手した本だった。 題名にあるような二十世紀に著された本についての話を軸として、第二次世界大戦に加え、イデオロギー対立と言った二十世紀に起きた事柄を浮かび上がらせるような様相を呈した一冊と言える。 この本の初版が著されたのは二十世紀末であり、その百年の総括をするような時代的要請を受けた本なのかもしれない。 旧ソビエト連邦における国家経営の礎となるべき農業の、生物学的思想の悪辣な支柱となった、ルィセンコなる人物の著作と愚策について、禄な反省が社会的に為されていないことを、著者が嘆いている、という一例を見ても、二十世紀の総括が試みられるべき、という時代的要請を感じられはしないか。 著者である紀田氏についての個人的な印象は、本の本について、いくつかの著作があったような朧気なる記憶があるばかりである。 今回、初めて読み進めるにあたり、読者を引き込む、著者の筆の誘引する力に引っ張られ、読み進めるのがとても楽しい。 読み進めるのが楽しいのは、本の本だから、というのも大いに手伝っているだろう。 おそらくは今月中に読了を迎えられるのではないか。 - 2026年5月10日
読んでる近頃もコンスタントに著作を発している、言わずと知れた社会学者である著者が、80年代後半からゼロ年代初頭にかけて、数多の雑誌に書いた文章を集めた一冊だ。 冒頭に記載があるように、社会学的、というより、文芸批評的なる文章を意図的に集めてきているようだ。 著者自身にも自覚があるとは思うけれど、文章が進み、論が展開するにつれ、深海へと潜水するかのように、いつの間にか話が脱線していく。 緩やかに潜り、読者に共有せんとする深海の景色は、その難解さ故によく分からない場合も多い。 「また、話が逸れてしまった」と言わんばかりの次段落冒頭の文言には、或いは潜水夫の息継ぎが感じられる。 この著者を読みたいと思うとき、著者自身ですら制御下に置けない、この「荒ぶる知性」とでも形容したくなる知性の躍動を拝みたいとの欲望を、僕自身の中に感じる。 おそらく書かずにはいられない、誤解を恐れずに言えば、病的な書き手の一人と個人的にカウントしている。 無論、彼のように書いてみたい気持ちは、僕にも内在している。 読了は来月にまたがるかもしれない。 - 2026年5月4日
読んでる実家の本棚に差さっていた本書は、以前、どこかの新刊書店で自分が上下巻あわせて購入したものだった。 帰省に際し、本書が気になって、読み始めた経緯がある。 まず、本書には注釈がなく、引用が余りに少ない。 加えて、論考を進めるにあたり、紙幅のせいにしたり、結論を急いだりして、結果、「たぶん」や「おそらく」と言った前置きを据えて、詳細な論拠を読者に示すことから逃げ過ぎている。 学術的な価値のある書物や読み物としての書物を区別することなく、ラインナップする中公文庫というレーベルであるから、気づかれないこともあるだろうが、学術系の書物を区別する筑摩書房や講談社の持つ文庫レーベルでは、或いは「ちくま文庫」や「講談社文庫」にラインナップされるべき書物であるだろう。 (良書の多い「ちくま文庫」や「講談社文庫」にラインナップされる作品を冒涜する意味合いは伏在させていない。) 現下、上巻の読みさしの状況であるため、そこまで言及できるか定かではないが、(もしかしたら、途中で改心があるかもしれない。)ある意味、ここまで論拠の不明瞭な文章で、ふわふわと上下巻を書き切る芸当は尊敬に値する。 これも読みさしにしている書物であるから、断定的には言えないけれど、吉川浩満著『理不尽な進化』(ちくま文庫)を読んだ際の感慨と類似している。 本書の著者は鬼籍に入っているから、沽券に配慮する必要もないのかもしれないが、吉川氏の著作同様、スケールの大きい論考で何かを言ったようにするには、かような書き方が必要となるのかもしれない。 ただ、個人的には読了するに値する書物か、というのは念頭に置きながらの読書になると思う。 - 2026年4月30日
歴史の哲学: 現代の思想的状況渡邊二郎読み終わった400ページからなる浩瀚な本書を、その難しさ故に「分からぬ分からぬ」とぼやきながら、読み進めていたら、最後にはかような景色が待っていた! ニヒリズムについての単著がある著者の理解が深いと思しき、ニーチェの章と、ヤスパースについて書かれた、その最終章が理解できた以外は、殆ど分からなかった。 ただ、ヤスパースの歴史観が描かれた最終章だけでも本書を読んだ甲斐があったと思う。 自由主義と民主主義を礼賛し、社会主義について、辛辣に記載されているのは、冷戦終結の煽りを多少なりと受けた、畢竟、時代性を反映した記述なのだろう。 ヤスパースの著作が未来に向けても記載があるのか、それに則り、本書も最後は歴史だけに留まらず、未来に向けて開けた記述になっていた。 今回も読了を迎えないのではないか、と思ったが、実家への帰省を好機に変えて、読み終えてしまった。 不十分な理解、という致命的過ぎる欠陥はあるものの、本書を読了できたことは、幾分か自信になる。 実家で本棚を眺めていたら、も少し柔らかめの本を読了するのでも差し支えなかろう、との思いを持ったため、次回以降の読了本は軟化していくのではないか。 - 2026年4月18日
読み終わった2月から読み始めて、読了するのに4月まで掛かる読書の内実はどのようなものであるのか。 他の書籍に意識を持っていかれ、途切れ途切れの読書だった。 ただ、現代社会の知識について、現代の書き手が書いているから、途切れ途切れであっても理解が及ばないことはなかった。 この書籍に記載された知識が就労前の学生を主な対象としていることに愕然とする自分がいる。 学び始めるのに遅過ぎるということはないはずだけれど、もうすぐやってくる中年と煩わしいリーディンググラスの可能性を前に、この手の常識はさっさと取り込んでしまおう、という気になった。 この書籍は縦書きであり、読みやすかったが、教科書的なるこの手の類書は横書きが多く、それを言い訳に敬遠していた。 常識を取り込むためには、そういう言い訳はよろしくないのだと思う。 自分に十分な知識がないという幸福は自己が増長しないために必要な考え方だと思う。 いつになっても、無知の知を誇れるようでありたいが、知識の仕入れは早いに越したことはない。 仕事に必要な知識についての読了本が、今後、増えることがあれば、この本が契機であり、また、この本を手に取った契機は上司の言にこそある。 - 2026年4月15日
歴史の哲学: 現代の思想的状況渡邊二郎読んでる数年前に神保町の古本屋で購入してから、読みさしのまま、何度も途中やりにしてしまっていた。 もう何度目のトライであろうか。 今回は100ページまで読んだけれど、その道程は理解できぬところばかりであった。 これまでの数多のリタイアの要因は、おそらく隙間時間に刻んで読んでいるから、ということも多分にあり得るから、今回はできるだけ纏まった読書時間を取れる日に読むようにはしている。 渡邊二郎なる哲学者の名前にビビりまくっている事実も大いに手伝っている。 ただし、90ページを越した辺りから、話が分かるようになってくる辺り、難解な書物に見られる傾きと相似形を成していて、安堵を覚える。 理解が進みはじめて、10ページしか経たないから、ここに書くべきことも特にない。 今月中に読了を迎えるなら上出来だ。 - 2026年4月5日
スイッチ!ダン・ハース,チップ・ハース,千葉敏生読んでる記録を見ると10年くらい前に一度読了している。 その際の印象があまりに強烈だった。 細部はおろか、要点も忘れているけれど、「象使い」と「象」が出てくることや、強烈な印象を受けたことは覚えている。 当時はKindleで読んだけれど、今回は紙の文庫で読んでいる。 まだ、新刊書店に売っていることにも、一定程度の驚愕を覚える。 ほとんど再読をしない向きではあるけれど、本書は2回目の読了に向かって進んでいる。 問題解決のため、人を動かすための考え方が豊富な事例を引きながら、分かりやすく順序立てて記載されていく。 ひとに勧めるための再読と思っていたが、社会人13年目の自分の抱えている悩みに照らし合わせていることに気づく。 例えば、幹事役を買って出たイベントに、より多くの人に参加して貰うには如何にすべきか、といった悩みだ。 人を動かすための考え方、と書いたが、その人の中に必ずや自分も含めようと思っている。 未熟者の自分を自分がどう動かすか、ということにも役立つと思う。 ビジネス書に近く、実学的に学ぶことが多い読書だ。 今月中には読了できる。 - 2026年4月5日
シネ・シティー鳥瞰図池澤夏樹読んでる15年来、通い続けている中目黒のCOW BOOKSに於いて、購入してはいたが、水濡れの激しい個体だったため、多くの積読本の中に紛れていた。 近頃、名古屋は今池のシマウマ書房で綺麗な個体を見つけ、コーヒー代と同等とあって、再度、購入した。 それ故、本の見返しの遊びにCOW BOOKSのシールはない。 言わずもがな小説家の大家であり、数年前にその文明論的なる書物をいくつか読了し、余りにも強い印象を個人的に受け、感銘を受けた。 本書も期待が大きく、只今、100ページを越えたところだ。 如何せん、30年近く前の本であり、見たことも聞いたこともない映画についての記述が大半を占める。 かろうじてイメージを喚起できる監督や俳優の名前、題材があれば、それを取っ掛かりにしているが、それは至極稀である。 絶版になって久しく、また、著者の名前が人口に膾炙して長らく経つが、それでも復刊しないのはこの辺りに理由が透けて見える。 読了を迎えられるか、極めて怪しい。 読みさしのまま、またの機会まで封じるかもしれぬ。 - 2026年3月22日
読み終わったデカルトやスピノザ、ホッブズ、ライプニッツという、本書で取り上げられる4人の哲学者に於いても、それぞれの色があり、個性があるように描かれている。 著者は17世紀哲学史に於いて、繰り広げられる思想の数々を楽しんでいる。 さすれば、本書を介し、我々に説明するにあたっても、楽しさが十分に伝わることになり、それ故、楽しい読書になった。 1世紀の間にも哲学は変遷し、ある思想は他の事情を抱えた思想によって、乗り越えられて行く。 本書には諸行無常の響きこそ、示されないが、アラフォーへと分け入る個人的な状況下にあって、そのような視点が過ぎらないこともない訳ではなかった。 あとがきにも書かれるように本書はエッセーであった。 無償の愛を介在し、母性から提供されたような飲み込みやすい感じの情報の提示のされかただった。 このあと、同類の書籍を読むにあたっても、本書のような著作は、取り上げられた4人の哲学者に対して想起するイメージの支点になり得る気がしている。 - 2026年3月12日
読み終わった「あとがき」に記載されている通り、著者は本書において、何が書きたかったのか、自認されている訳ではなかったようだ。 この手の本は冒頭の50ページこそ、難しくなる嫌いはあるものの、読み進めれば、進めるほど、文章に書き手の熱が宿り、読み応えが増していくことが多い。 ただ、本書は「エピローグ」が他の章と比して難しく、これは著者自身が書きたいことが明確でなく、落とし所を探りあぐねた、或いは腐心の結果、と言えるのかもしれない。 20世紀にドーキンス博士の考案した「遺伝子の乗り物としての生物」のように、19世紀の思想にはエスが哲学者の思想を乗り換え、変遷していった、と言うことを感想に書こうと思っていたが、それほど、大層なものでもない印象を、最終的には受けた。 國分功一郎氏の名解説を読むことができたのは、冷めた読後感を温めるのに余りある体験だった。 國分氏の文章を読んでいると、明快な知性とはどのようなものか、ということが分かる気がする。 - 2026年2月25日
読んでる心理学用語の「エス」との言葉を聞いて、諸賢に於かれてはフロイトが想起されるだろう。 人の心の原始的な欲望を表す部分を指して、そう呼んだ。 ただ、その術語は、フロイトにとって近しい人が発案した概念の剽窃だった旨の疑いが、この本の冒頭部に記載される。 剽窃の被害者だったグロデックなる人においても、「エス」をニーチェから引用していて、それ故、問題は大きくない、というのが、フロイトの弁明であったようだ。 「エス」と言語化されて、フロイトの手によって、『自我とエス』という形で1923年4月に刊行されるまでの思想的な流れ、或いは系譜を追った本だと言える。 その流れを追う過程で、源流としての哲学者デカルトや、思いがけず、詩人ランボーにまで話は及ぶ。 國分功一郎との共作で『いつもそばに本があった』をコロナ禍前に読了していた記録があるから、その頃から著者について、知ってはいたが、『連合の系譜』なる浩瀚な書を著されたことから、俄然、僕の個人的な興味の対象となった。 興が乗って、熱く書いていることが想像される部分は、読み進めていて、とてもおもしろい。 楽しい読書になる気がしている。 できることなら今月中に読み終えたい。 - 2026年2月25日
読んでる副題にもある通り、デカルトからライプニッツまでの哲学者について、その哲学史が一冊にされている。 近代の黎明期と表現される17世紀。 その時代を代表する哲学者の哲学について、著された本である。 昨年末、下村寅太郎著『ライプニッツ』を読んでから、熊野純彦著『西洋哲学史』まで進み、それらの書籍に比べれば、幾分か読みやすい。 著者の来歴に東京大学以上の大学と関わった形跡が認められないことから、彼はアカデミズムの世界におけるメインストリームを歩まなかった人であることが推察される。 あくまで憶測の域を出ないけれど、かような人が名の通った出版社から本を出すためには、読みやすさを追求する必要があったのではないか、と思われる。 言わずもがな、難しいことを簡単に書くことほど、難易度の高い作業はない。 著者の努力の結晶の一つである著作に触れられる経験は、何物にも替え難く、近代黎明期の哲学史への僕の理解を助けてくれるだろう。 現下、第二部のスピノザの項目の終盤に差し掛かる辺りを読んでいる。 できることなら、今月中に読了を迎えたい。 - 2026年2月14日
読んでる岩波新書から労働法の入門書を出していて、それを読み差しにしているから、という理由が大きいのだが、僕にとって、労働法と言って、純粋想起を獲得しているのは、著者である水町氏だった。 それ故、今回、会社の上司に挑発されて、労働法を勉強するにあたり、手に取ったのも著者が著した本作だった。 岩波新書からの入門書がどのような経緯から読みさしにしているのか、その記憶すら忘却の彼方を彷徨っている顛末にあるのだから、既にその内容や書きぶりを思い出し、本作と比較することは難しい。 ただ、本作に関して、尋常を大きく超越した読みやすさには、20代の自分が盛んに嗜んだビジネス書の妙味を思い出すばかりである。 僕にとって、読書とは10代の頃の試験前に捗る行為のすべてであり、それ以上の意味合いを求めないように、ある意味、頑張って来たと言っていい。 つまり、本来的にやるべきことがあるにも関わらず、目を逸らし、時間をやり過ごすための所業こそ、読書だった。 勉強をしていないと、自分の知識がまるでつまらない代物であることにも気づかない、という上司からの言が身に積まされる状況が生じ、実学の読書にも分け入った次第である。 格好付けて書いているが、とどのつまり、勉強しないままでは後輩にも馬鹿にされる惨憺たる状況が現実のものとなったことも起因し、渋々、手に取っただけの話である。 社会に出る前の学生を対象にした本であり、そもそも、十年選手が手に取る本ではなく、ダサいばかりであるが、今月中には読了したい。 - 2026年2月1日
AIエージェント城田真琴読み終わった本書にはAIエージェントが平和的に社会で運用されるユートピアのみが描かれている。 けれど、悪質な国家元首が跳梁跋扈する今の世界情勢にあって、彼らや彼女らが使用するであろうAIエージェントをハッキングして変数を弄ることができたとしたら、世界は第三次世界大戦への道を転がり落ちていくことになりはしないか。 今のきな臭い世界情勢、悪質な国家元首の挙動などを観ていると、そこに自制的な歯止めが掛かるとは到底思えない。 そういったハッキングを国家ぐるみで遂行するならず者国家も、AIエージェントが実現する未来には、まだ存続しているのではないか。 スマホが登場し、20年近く経った。 この時代の突端にあるAI技術をはじめとした昨今の科学技術が、世界を住みよくしているとは、個人的には到底思えない。 茹でガエルとしての我々を茹でているのも我々であるという、冗談のような事態が眼前にある。 本書は蛙を茹でるための科学技術について、現状報告が記載された料理本なのではないか、と皮肉を連ねてみる。 本書と著者に罪はなく、記載されている対象が人口に膾炙する未来を想像し、ゾッとしてしまった。 自分がどう足掻こうと、時代は進むのであろうが、そんなことを考えた。
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