

よろこびイサンディ
@yorocobi_isandy
- 2026年10月3日
読んでる例によって、著者の内田氏がブログに書き溜めた文章から、身体論的な文章を持ってきて、順番を編集した代物である。 僕の記憶によると、内田氏はブログに様々なる文章を書きまくっていて、それらの著作権を放棄している。 それ故、近頃では新興の出版社も、知名度の高い内田氏の、その文章を一冊にして、それからの軍資金を賄うのに利用しているのかもしれない。 (真偽は不確かだが、少なくとも、私見ではそのような活用をされているように見える。) 本書が文庫本で、その元となった単行本が2003年の初版であるから、もう四半世紀近く、そんなことを著者は続けている。 そうでなくても、出版界への貢献はあまりにも大きく、推して察するだけでも身の毛のよだつばかりである。 様々な分野に一家言がある著者のことであるから、それだけに限定することはできないが、内田氏は合気道にほとんど生涯を捧げている。 彼の軸の一つが合気道であることに異論はないであろう。 それ故の本書である。 僕の購入は20年程前だったのではないか。 いつかは読了を迎えたいと思い、心の片隅に引っかかり続けていた一冊であった。 先だって、購入したブックオフも閉店となり、近頃、「時は流れている」という言説が、どうやら嘘ではない、との得心があり、読み進めている次第である。 今月は他の本も読みたいのだ。 だから、悠長に本書に滞留している訳にもいかない。 早めに読み終えたい。 - 2026年9月24日
聖地アッシジの対話ヨゼフ・ピタウ,河合隼雄読み終わったヨゼフ・ピタウ氏と河合隼雄氏の対談集ではあるが、ピタウ氏は崇め奉られることの多い人生だったことも起因したのだろうか、ピタウ氏が河合氏の話を聞き、応答するという構図が殆ど成立することがなく、河合氏が聞いてばかりだった。 或いは河合氏もそのことに気付いていたかもしれないが、腹を立てるそぶりも見せず、スッと受けに回り、フランチェスコについての質問を向ける辺り、今もってなお語り継がれる程のカウンセラーであった河合氏の腕が鳴った場面であった。 河合氏の考え方の妙味を味わいたいのであれば、河合氏の単著を勧めたい。 加えて、この本を端緒として、河合氏を知ることが勧められることはあり得ない。 ただ、カウンセラーとしての河合氏を知りたいのであれば、数多ある河合氏と対峙した対談本の中でも、この本は屈指の出来栄えではあるまいか。 万人に一読の価値が必ずしもあるか、と言えば、難しい。 何冊か、河合隼雄氏の著作や対談本を読んだ向きであれば、読まれても差し支えないだろう。 この本の味はおそらく、河合氏の著作を何冊か読了したあとでなければ、分からない。 - 2026年9月23日
読み終わった後半部に差し掛かったところで、WWⅡの敗走の場面が訪れた。 戦時下のモンゴルの地に調査に出向いているにも関わらず、戦争の気配すら感じ得ない前半部を読み進めるあいだ、想像から演繹していくことを楽しみにしていたために、この場面の到来は虚をつかれたような感じがした。 かの戦争の際、ロシアが対日参戦をしたのが8月9日の出来事であるが、その数日前まで、極めてのん気にモンゴルで調査をしている様子が描かれている。 1945年8月のある日を境に一変した記述から、戦時下のある側面を類推することは可能であると思う。 最終盤の動物記で「狼」についての記述があり、現在に於ける「熊」と同じような立ち位置で人間社会と関わっている有り様には驚いた。 「文明開化」の言葉が表すような、一変した人間の生活様式に伴い、狼も食料の確保が難しくなり、それ故、人間の女や子供を狙って、食らうようになった。 現代の熊について、人間を食料と見做し、狩りを仕掛けているようには見受けられない点は、狼との相違があるかもしれない。 ただ、絶滅というニホンオオカミの歩んだ末路を知っている我々からすれば、熊も同じような末路を歩む可能性を案じたりする。 二十歳の時分から数えてみれば、今西錦司氏の著作は2冊目の読了である。 40代だった著者による若書きの本書ではあるが、粗雑な憶測を踏まえた記述こそあれ、難しさはなく、得るところは多かった。 一読の価値くらいはあるのではないか。 - 2026年9月21日
聖地アッシジの対話ヨゼフ・ピタウ,河合隼雄読んでる題名に「対話」とあるけれど、対話の応酬がはじまったのは100ページを超えた辺りからだった。 河合隼雄氏は明恵上人についての単著があり、また、ヨゼフ・ピタウ氏はアッシジの聖フランチェスコに詳しい。 明恵上人と聖フランチェスコの類似性について、河井氏の明恵上人についての単著の読者から指摘があり、それから河井氏が聖フランチェスコについて、興味を深めていった。 その帰結として、本書での対話が実現した。 明恵上人と聖フランチェスコの類似性については、いつだったか、おそらく河井氏の著作を読んだ際の知識として、僕の体内にはあった。 シルバーウィーク初日に訪れた神田神保町の長島書店で背表紙を見て、すぐさま購入を決断し、読み進めている次第である。 明恵上人と聖フランチェスコは同時代人であり、且つ彼らのそれぞれの行動が似通っている。 世界があまりに遠大で、また、共通の世界観や宇宙観すらあり得ない時代に、このような同時性が生まれる不思議にはとても興味がある。 これもこのシルバーウィークに読了を迎えたい一冊だ。 - 2026年9月20日
読んでる明治生まれの京大教授による著作が本書だ。 本書で「蒙古」と言っているのは、言わずもがな、現在のモンゴルのことだ。 その地のアイデンティティとなっている遊牧の、その発生について、生態学の観点から記述されている。 牛や馬、羊、と言った動物が、原初的にどのような流れで家畜となったのか。 想像するに現在においては、その手の推論の手掛かりとなるのは遺伝子研究であろう。 本書においては、「遺伝子」の言葉は出てこない。 それが故に、どこか哲学的な思索と近接している感覚を受ける。 科学技術の介在が少ない、哲学に近接しているように見える生態学は、とても芳醇な香りを放つ。 100ページ余りを読み終えたが、戦時下に記載されている文章も多い。 その時代的背景を演繹しつつ読むことも、本書を読み進める上での楽しみの一つだ。 この休みの間に読み終えることができれば、順調な読書である。 - 2026年9月6日
読み終わった本書の終盤、ジャック・マイヨールがクジラとの遊泳を求める章があり、その中でクジラは人間より随分大きい脳を持っている、という記述があった。 その大きな脳で何を考えているか、といったことも、敬意を評しつつ、書いてあった。 そもそも人間は、その種としての時間の最終盤で言語を持った。 言語を持つまでに体得してきた有象無象の言語化こそ、人類という種がしてきたことであり、この数百年に至っては、メタ的に認知するなどして、こねくり回しているに過ぎない印象すらあり得る。 SF的な夢想でしかないが、例えば、クジラに「言語」という一種の不幸が宿ることがあれば、人間がこれまでに築いてきた哲学的なる思想に大きな影響を与え、或いは根底から覆す可能性すらあるのではないか、と、本書を読みながら考えた。 作家のすべては処女作で極まる、との言葉を、何かの本で読んだことがある。 それを人類やクジラという種に敷衍しただけの思考ではあるけれど、そんな思考を齎してくれる、素晴らしい一冊だった。 名古屋に転勤になる少し前、30代前半に、僕個人の経験として、素潜りに近づいた経験があった。 同じ会社の同じ事業本部に、若かりし頃、素潜りに没頭した日々を重ねた人がいて、僕を誘ってくれた。 「興味があるようなら、電話をくれればいい」 向こうの求めるような真っ当な回答をせぬまま、僕はまだ、深い海の静謐に対し、距離を詰めかねている。 - 2026年9月5日
読んでるひとかどの映画好きであれば、「ジャック・マイヨール」という名前を聞けば、『グラン・ブルー』なる往年の名作が想起されるのではないか。 かの映画を視聴した者は、たとえ如何なる情報が忘却に伏されようとも、あの深海の濃紺と、そこに表現される静謐は脳裏に焼き付いているのではないか。 本書は『グラン・ブルー』以後、名声をはせてのち、十年と経たぬうちに著者がジャック・マイヨールと過ごした時間について、書かれている。 文字が大きく、1ページあたりの文章が少ない点も相俟って、何か良質な詩を読んでいるような気分になる。 それは著者の名文と、それによって描かれる神秘的な題材の相乗効果であることに読者は気づくことになる。 本書は、先だって読了を迎えた、同じ著者による『ハワイイ紀行』で触れられていて、気になって購入した次第である。 『ハワイイ紀行』で帯びた読了後の熱を、まだ、思い出せる時分にあって、依然、半分にも満たないページを読み進めているに過ぎないが、読み終わるのが惜しい。 ジャック・マイヨールの代名詞である素潜りで、彼が100メートルの深海に到達してから、今年で50年が経つことに読み進める中で気づいた。 1976年、人類から前人未到が、また一つ、損なわれた。 ただ、果てしない宇宙へと人類の意識のベクトルが向くよりも、海やその下に向いているときの方が、何か安心できるのは僕だけの現象なのだろうか。 ずっと本書に滞在していたい気持ちも捨て切れぬが、早晩、読み終えることになるだろう。 - 2026年8月30日
文章予測 読解力の鍛え方石黒圭読み終わったこの本は期せずして再読本であった事実を白状せねばなるまい。 引用された素敵な文章が、どうも全て一読の経験があるような気がしてならない。 薄ら薄らとそう思っていたが、あとがきまで読み進めて、以前からつけている読書記録を漁ってみれば、発売から日を置かぬときに一度、読了していた。 8年前に読了した際も、凡そ似たような動機で読み始めたのではないか。 読み進めるスピードへの飽くなき憧憬は、予期せぬ再読を呼び寄せた。 単行本しか流通していない時分に読了したのだ、と見当を付けて、読書記録を漁ってみれば、同じ文庫版での読了だったことには呆れるばかりであった。 ただ、8年前に一読したのみにもかかわらず、その文学からの引用文の内容を覚えていたこと、今後の選書に影響するのではないか。 最終の引用文は漱石からであった。 まとめて取り組んだ経験がなく、今回のように何かの読書に引用されているのを読むばかりであったが、その比類なき文章の引力は凄まじく、比べるのもおこがましい程の我が拙文の行く末を案じた。 - 2026年8月30日
文章予測 読解力の鍛え方石黒圭読んでる別に何か恨みつらみがある訳ではないが、僕の投稿で何度か話題にしている、例の文芸評論家があまりに読むのが速いのは、おそらく目前の一冊に対して、予測している分量がとても大きいからではないか、と思う節が、彼女の動画を見たり、彼女の書いた文章を読んでいてあった。 それ故、Amazonで「読書」「予測」と検索して発見したのが本書であり、それから久しぶりにAmazonで発注した。 個人的に、見つけた本屋で購入したい向きであるので、今回のAmazonでの購入は許容範囲ではある。 100ページ程、読み進めてきたが、今のところは思うような内容ではない。 ただ、これから内容を予測することについて書かれているようだ。 そのため、読み進めるのが楽しみだ。 引用されている文章も素敵なものが多く、多分に彩りを加えている。 明日までに読み終えることができればいいのだが、そう、うまくいかないのではないか。 来月初めには読み終えていたい。 - 2026年8月22日
歴史学の手引き長谷川まゆ帆読み終わった他の章についても学ぶべきことが本当に多い本だったけれど、僕にとっては第6章が最も印象に残った。 一時代を築いた一群の歴史学者が、90年代初頭に歴史学者となった著者の視点から綴られている点、僕にとっては蒙を啓かれる内容だった。 歴史学についての専門的な教育を受けたことのない僕にとって、網野善彦氏や阿部謹也氏、二宮宏之氏といった、歴史学の大家は、ただ点在しているだけだった。 この第6章を読み、その大家が線となり、面となって立ち上がってくる感覚があった。 歴史学者の歴史が有機的に結束していく感覚があった。 網野氏や阿部氏、二宮氏についても、必ずしもその当時の歴史学のメインストリームを進んできておらず、ある種の破調として名を馳せた点は、僕が本書を経験する前に感じていた歴史学の魅力とも相通ずる点があり、嬉しかった。 著者の優しい語り口に先導され、このあとも続くのではないか、という淡い期待を抱いたままに読了と相成った。 個人的には、かの時代の歴史学者の著作を読みたい気持ちが膨らんでいる。 また、それらを読むにつけ、本書と著者を知り、彼女が本書で顕現した視座を持って読み進められる幸福は、僕と同じ読書好きにも味わって欲しいと切に願うところだ。 - 2026年8月12日
旅して学ぶ台湾劉彦甫,山崎直也,洪郁如,胎中千鶴,赤松美和子読み終わった旅行者として訪れる我々に、台湾と台湾人に対する想像力を養うべく用意されたのが本書なのかもしれない。 この本を経験したことにより、台湾での我々のコミュニケーションがより円滑になるなら、著者の望むところなのだろう。 地政学的により微妙なバランス感覚が必要となる台湾という土地にあって、歴史上、翻弄された過去も直視して記載されている。 その翻弄された過去の中には日本が加害側になったこともあり、その事実にも紙幅を割いている点、好感を持てる。 本書にその記載こそなかったが、東日本大震災の災禍にあった日本への台湾の厚い支援を端緒としているように見受けられる日台の良好な関係は、コロナ禍以降、大輪の花を咲かせている。 良好な日台関係を維持し続ける絶妙なバランス感覚を、我々も学び取ることができるかもしれない。 本書はその一歩目を踏み出す際にも有効的に機能するだろう。 格別の読後感こそ、存在しない本書だけれど、台湾史を知る上でおさえるべき歴史的事実を着実に積み重ねて、読了と相成った。 台湾旅行を何度か経験し、かの地をより深く知りたくなった人のための境界に屹立する一冊なのかもしれない。 - 2026年8月11日
歴史学の手引き長谷川まゆ帆読んでるフランス近世史を研究する東京大学名誉教授による、題名にもある通り、歴史学の手引きが本書である。 こう書いてしまうと、読むのに骨が折れる著作かと思われるかもしれない。 ただ、どちらかと言うと「手引き」という方が先行し、際立っているが故にスルスルと読み進めることができる。 歴史学にそれなりの興味を持っている、僕のような一般の読者であれば、名前くらいは知っている西洋の歴史学者についての概略が記載され、彼彼女らに対する著者の意見も記されている。 歴史哲学の周辺をうろついていた僕の、個人的な時宜を捉えた本書は、「こんな本を待っていた」という好意的な感覚を持たせてくれる。 昨年に読了を迎え、個人的にとても印象に残っているフランス文学者・石川美子氏の著作と語り口が似ている気がしている。 彼女らの共通点は「フランス」にあるが、どれほど影響しているか。 このところ、良書に当たることが続いている。 やはり読み進めなくては、読書の女神は微笑まない。 そう、時間を掛けずに読み終えたいが、叶うだろうか。 - 2026年8月8日
旅して学ぶ台湾劉彦甫,山崎直也,洪郁如,胎中千鶴,赤松美和子読んでる日本経済新聞の書評で取り上げられ、それを呼び水にして購入した次第である。 日本経済新聞という、泣く子も黙る日本一の経済新聞が書評で「岩波ジュニア新書」を取り上げた。 そのことをちょっとした事件と捉え、本書に興味を持った。 本書は昨今の台湾旅行の流行から派生するようにして生まれたのではないか、と推察することができる。 台湾に対する、ちょうどいい背丈の書籍がないことは、大手書店の台湾関連の本棚の前に立てば、自ずと分かる。 その間隙を縫った、マーケティングが先行した、というと悪意の表象した表現に成ってしまうが、そういった本だと思われる。 台湾史について、これ程、噛み砕かれ、嚥下し易くされた書籍は類例がないだろう。 知らないことがあった場合、書籍に当たる人々、且つ台湾に興味がある人々にとって、痒いところに手が届く書籍なのではないか。 このテーマに対する興味が人並みにある自分にとっても、台湾への知識が増強されていく感覚がある。 200ページに満たない本書のことである。 早晩、読み終えたい。 - 2026年7月25日
ハワイイ紀行 完全版池澤夏樹読み終わった素晴らしい読後感から殆ど間を置かずに、この投稿への文章を記載している。 燦然たる読書体験をもたらした本書を、長らく積んでいたことに後悔を感じ、また、読了まで進んだのが、なぜ今だったのか、ということについての思考を、本書が要求している気がしてならない。 500ページ超の本書を読み進めるにあたり、何度、頭の中で、ここに書く感想を添削したことか。 素晴らしい本書の素晴らしいページについて、諸賢に伝えたい思いが、何度、去来したことか。 著者の地学的な好奇心を端緒として、本書は始まり、章ごとのテーマに対し、都度、歴史を丁寧に追っては行くものの、全体の流れとして、地下深く、大地の歴史から、徐々に人の歴史や彼彼女らの営みに対する話題へと推移する。 最終的には読者を宇宙に誘う辺りは構成を案じた著者の妙技を感じる。 ただ、能書きを垂れると本書の魅力を伝えられない。 このほとばしる感動を伝えるには、言葉という器は冷静でシニカルに過ぎる。 本書が新刊書店で手に入らない地域もあることから推察すれば、絶版の憂き目に差し掛かっているのかもしれない。 30年近く前に刊行された本書が、更に版を重ね続け、読み継がれることを強く願っている。 - 2026年7月19日
読み終わった本書を語る有識者が揃って「バザールとクラブ」への言及をするのは、おそらく社会学用語としての「サードプレイス」という人口に膾炙した概念があって、それで理解の素地が均されていたからなのだろう。 「サードプレイス」で慣れ親しんだ構造を「バザールとクラブ」へと微調整し、置き換えた。 本書にて、「サードプレイス」への言及こそなかったが、推して知ることができるし、だからといって、別にその一連が悪い訳でもない。 昨年末、下村寅太郎がライプニッツについて著した本を読了した際、犯した過ちを忘れている訳ではない。 20世紀後半のアメリカを舞台に活躍したローティの、その著作に当たるより前に、哲学的な流れをなぞる必要を、僕はまだ覚えている。 ただ、こうも魅力的に哲学者を表現されると、一足飛びにローティの著作に当たっている未来も想像に難くない。 そして、撃沈して、僕は哲学史の復習に戻ってくるのだ。 ローティについての本書を手に取ったのは、先んじて読了していた鼎談本の話者の一角としての朱氏の著作だったからであって、哲学への好奇心が引導した結果、という訳ではない、という、あて所に尋ね当たらない、退屈な言い訳をして、筆を置くことにする。 - 2026年7月17日
読んでるこの前の5月に出版されたばかりの新書である。 20代の頃はよく読んでいたが、随分と久しぶりにNHK出版新書を手に取るのではないか。 先だって、読了を迎えたネガティブ・ケイパビリティについての鼎談本における話者のひとりである朱氏が著した本書は、氏の専門であるローティについての入門書である。 文章自体は至極、読みやすい。 著者自身も読みやすいように腐心しているのではないか、と思う。 ただ、漫然と読んでいると、頭に入ってこない瞬間があるのは、おそらくローティの醸した哲学の難解さ故なのかもしれない。 僕はローティの本を読了したことがなく、本書でも丁寧に取り上げられている『偶然性・アイロニー・連帯』という本の、その独特なる書名を知っているばかりである。 正直に言えば、『正義論』を著したロールズと本書のローティを混ざって認識していたくらいだ。 20世紀後半に活躍した哲学者とあって、理解するための下地が隔絶している訳ではない。 200ページを僅かに超えるくらいの本書である。 今月中に読了を迎えられるといい。 - 2026年7月12日
ハワイイ紀行 完全版池澤夏樹読んでる随分と前に購入した記憶がある。 よく考えてみると、二十歳過ぎに購入した可能性すらあり得る。 15年以上を読了を迎えぬまま、過ごしたことになる。 読書に対する抵抗感の近接を感じながら、読書好きを周囲に公言していた時分であったから、500ページ超の本書についても、たじろぎながら、ページが繰られることはなかった。 それをなぜ、今、読み進めることになったのか。 ひとつの作品に対する読みたい気持ちは、往々にして、減衰することが多いが、本作に関しては読みたい気持ちは購入当時のままであって、そうであるならば、と思い、読み始めた次第である。 加えて、この5年程で、著者の文明論的なる作品を複数冊、読了し、好印象が持続的にあった。 その感覚は、殆ど片恋のようですらあった。 現地的な発音でのハワイイを、著者が旅し、調べ尽くした紀行文である。 理系出身の著者による確実な筆致、硬質な文体で、地学的に特異なハワイ諸島について、滔々と語られていく。 どの大陸からも隔絶した絶海の諸島としてのハワイ諸島に対する、著者の興味が、まずあって、その興味はより多くの知見を蓄えた人々へと繋がっていく。 冷静沈着な文体が乱れることこそ、ないけれど、本書をかえりみて、俯瞰できた瞬間、著者の興奮を、或いは推察することができる。 夏の盛りには読み終えていたい。 - 2026年7月5日
読み終わったあとがきに記されているように、二十代の頃に書かれた文章も本作にはあるらしい。 多くの物書きに類似した傾向ではあるけれど、若かりし日に書かれた文章というのは、どうしてこうも読みにくく、人を寄せ付けぬ感じがするのだろう。 そういった寄せ付けぬ傾向のある作品も収録されているものの、文芸批評的なる文章を集めてきたという本作は、前半部までは楽しく読めた。 言わずと知れた社会学者であり、多くの読者を獲得している大澤氏であるからこそ、畑違いの分野についての文章であっても、15年以上の歳月を越しても絶版とならないのだと思う。 氏の文章は独特で、ともすればスノッブな感じさえ漂う。 氏が師事した見田宗介にも時勢に対する見解を、ただ集めただけの著作があったが、それと似たような読後感だった。 個人的に大澤氏の著作を何冊か読了しているけれど、やはり真骨頂は社会学的なる著作だと思う。 端役のようであり、また、骨の折れる本作より前に読むべき著作はありそうだ。 - 2026年6月29日
みみずくは黄昏に飛びたつ川上未映子,村上春樹読み終わった文庫版のための対談も含めるとすれば、5回の対談が収録された本書は、ともすれば、一貫した物語を胚胎している気さえしてくる。 4回目の対談は村上春樹の自邸で執り行われ、そこでの川上未映子のあまりに容赦のない、ややもすれば、無礼とも取れる程の率直な質問に、村上春樹は少々、たじろぎつつも、誠実に回答しているように僕には見受けられた。 それまでの3回の長いインタビューの積み上げによる達成であり、或いは双方がそれぞれの方法でそれぞれの小説に向き合ってきたインタビュー以前の時間と、その間の試行錯誤の蓄積が香り立つ豊穣となって、ページから立ちのぼっていた。 村上春樹の書き方がスタンダードではないのかもしれないし、スタンダードたり得ないが故に世界的な小説家としての確固たる名声を築いたのかもしれないが、彼の書き方について、彼自身が語った箇所は実に神秘的であった。 村上春樹の新作が刊行予定の夏にあって、本書を読み始めた頃、僕はその報を知らなかった。 ただ、今週末に迫った刊行予定日に、本書を経験した僕は書店に行くだろう。 ティーンエイジャーに読み耽った村上春樹の著したフィクションに再会し、如何なる感想を抱くのか。 今からとても楽しみなイベントである。 - 2026年6月28日
増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる朱喜哲,杉谷和哉,谷川嘉浩読み終わった文庫版になって追補された終盤の3つの章では、題名にもなっている「ネガティヴ・ケイパビリティ」の文言が頻出されていて、それによって、理解が定着した感はあり得る。 そう込み入った概念ではなく、一文のみで端的に記載されている箇所も多くあった。 言い淀み、立ち止まり、思考すること。 当世風ではないその概念の周辺について、様々な例を示しつつ、語り続けた結果が本書だった。 例えば、ベン図における補集合を多くの具体例で埋めていき、集合としての「ネガティヴ・ケイパビリティ」を顕現していく。 その迂遠とも取れるあらわし方こそ、不器用な「ネガティヴ・ケイパビリティ」を具現化しているのかもしれない、と思った。 個人的には、言い淀み、立ち止まるタイプの人間である。 それ故、「本書を読み、自己肯定感が上がった」としてしまえば、本書の意図にそぐわない程に短絡的な感想となってしまう。 言い淀み、立ち止まってはいるが、そこに深い思考が伴って来ない僕は、もっと読書を進めていこう、との決意を新たにした。 読みさしの際の印象から、かなりの好印象へと転じた。 今月中の読了を迎えられて、安堵している。
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