覚醒のネットワーク

4件の記録
句読点@books_qutoten2026年5月23日著者の31歳の時のデビュー作だったということをあとがきで知った。本たくさん出されてる方だけど、これが原点だったんだ。 初版は今から37年前の1989年。だけど、全く色褪せていないどころか、今こそとても大事なことが書かれていると感じた。 国際情勢もめちゃくちゃだし、国内の政治もめちゃくちゃだし、環境問題も解決どころかどんどん悪化しているし、毎日毎日暗くなるようなニュースばかりで、自分にできることなんてたかがしれていて、もう何しても無駄かもしれない、間に合わないかもしれない、と絶望したくなるような世の中だが、この本では、「私」と「世界」がひとつづきなもので、目の前にあるものこそが世界で、自分も世界の一部なのだから、すなわち自分自身のなかに世界を癒す道筋が必ずある、むしろそこからしか始まらない、という当たり前なようでいて、実際には忘れてしまいがちなことを思い出させてくれる本だった。 holyとかhealとかの語源がwhole(全体の、完全な)から来ているということから、局所的に思えるものも実際には全体に繋がっていて、つまり局所的に何か切り出してきて解決したように思えても、全体としては全く解決していないような解決方法では意味がなく、つまり常に地球規模の意識を持ちつつ、行動は具体的に、think globally, act locally. が大事であると。local、局所的に思えても、それが全体への意識が向いてなされたのであれば必ず全体にも作用し、つながり合っているという感覚。だからまず目の前のことひとつひとつから。 自分という意識も、自己即世界であるという意識を持てれば、自分さえ良ければそれでいいという意識とか、他人との比較で自己を規定する必要もなくなり、開かれた自己意識でいることで他の人とも同じ「いのち」として、人だけでなく動植物、場合によっては無機物に対してすらもそうした同朋意識が持てるようになれば、その瞬間から見える世界や行動ひとつひとつが変わっていくだろう。 「私」という殻に閉じこもりそうになったらまた読み直して再び開きたい。 あとがきや解説でも言われているように、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のような本。スリランカの悪魔祓いのフィールドワークをしているときに天啓のように「書きたい」という気持ちが起こり、わずか3週間でこの本の元になる原稿を手書きで書き上げたという。その経緯もニーチェとそっくり。もちろん、バタイユにも、岡本太郎にも通じる本だと思う。






