ごうき
@IAMGK
2026年5月1日
風の歌を聴け
村上春樹
読み終わった
「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。」
とんでもないものを読んでしまった、と思った。
私は今、とある詩人の影響で、フォルマリズムとロマンチシズムというものについて考えている。堀辰雄の『風立ちぬ』が大好きな(おそらく)ロマンチストの私にとって、反叙情を掲げ詩を紡いでゆく彼の影響は大きいのだ。
本作は、そんな私が初めて読んだ村上春樹の作品である。彼の作品は屡々雰囲気小説だと揶揄されるが、少なくとも本作は極めてフォルマリズムに則ったものであるように思う。雰囲気小説と言われるのはおそらく、なんの脈絡のない接続詞であったり斜に構えた態度であったりストーリーの展開のせいだろうが、その実文章は極めて現実的であり、感傷の欠片もない。作者は然るべき展開を然るべき位置に拵え、しかもそれを無意識的にしているような感じがする。それが本作の最も優れた点だ。
けれども、比喩はとても詩的だ。「それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった」という部分、なんて比喩だ。
人生の無為から生きる動機を見出すのがロマンチストの所業なのならば、人生の無為を静観し、ただ在るという態度をとることこそ、フォルマリストの成す所業であろう。本作は意図的に無為なものを描写しているように感じる。また、「鼠」というロマンチスト(おそらく鼠はフォルマリストである主人公の奥底に僅かに残留するロマンチシズム的存在なのだろう)を無為に対するアンチテーゼとして置くことで、徹底的に無為を読者に突きつけているように思える。
読んでいる途中の思索があまりにも多く、メモしながら読み進め、しかもそれを忘れないうちに書き留めておきたかったので、なかなか支離滅裂な感想となってしまった。
後日、本作に関する論文を読むつもりなので、それを読んだら、もう一度整理してみる。
翌日の私より、P.S.
「『自分と自分をとりまく事物との距離を確認する』行為がなぜ必要なのだろうか。『ものさし』はその距離を介して現実へのコミットメントを取り戻そうとするための手段なのではないか。」
「注目すべきことは、この個がそれによっていつもある一般性(普遍性)を象徴することである。たとえば、特殊な個々の松を描くことによって、逆に「松」という普遍を描き出す、あるいは描きうるという信念こそが、リアリズムなのである。」
ふむふむ、なるほど…。柄谷行人と小林秀雄を読まねば。そして、道具化しなければ。
あと、前々から思っていたんだけど、こういう批評家や文学研究者の指摘を、作者自身は自覚しているのだろうか?作者自身も気がついていないような内面的な要素を指摘しているように見える…。もし作者自身もそれに気づいていて小説を設計しているのならば、なんとも恐ろしいことだ。
