ごうき
@IAMGK
2026年7月2日
仮面の告白
三島由紀夫
読み終わった
「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」
これまたとんでもないものを読んでしまった。これほどまでに揺さぶられたのは久しぶりだ。三島の作品は丁度1年ほど前に『金閣寺』を読んだ以来で、三島で読むのは本作が2作目だが、とても良かった。1年ほど前に出会っていたら、私の命運に大きく関わっていたかも知れない。いや、そうでなくとも、本作が私の読んだ本の中でも尤も大きな感銘を与える作品の1つであることに変わりはない。
初めて読んだ『金閣寺』では、その晦渋な文体、観念的な作風にひどく辟易していたが、本作はより、徹頭徹尾、観念的であり実体が感じられなかった(作中でも述べられていたが、それは三島の意図するところであったらしい。逆にここまで観念的でないと、人間の心理とその機序は説明できないのだろう)。だから、私にはこの作品を読み感じることはできても、観ることはできないのかもしれない。
しかしその己の非人間的な要素への憂いをひた隠すような文体と論理からは自伝をとても感じる。『人間失格』よりもだ。先日とある古本祭りで昭和46年に刊行された『新潮 三島由紀夫読本』を入手したのだが、それによると三島はクリエイティビティへの飽くなき追求心を持っていた。ノートいっぱいに、作品の構成を緻密に設計しているのである。思うに本作もそうした精緻な作り、物語の構成と人生を重ねあわせる設計になっているが、全くと言っていいほど「作り物感」は感じられなかった。思うに、構成の流れがとても綺麗なのだろう。これは、完成された独白だ。そして、独白とは、芸術の尤もピュアな形ではなかろうか。
三島は本作で愛する能力のない自分・人間として生きる能力のない自分を、骨の髄まで描いた。三島は作中で(そしておそらく自身の指針として)「愛する資格もないのに愛を求める人にはならない」と強く自己暗示していたが、そもそも「他人を愛するためには、まず自分を愛さなければならない」ということ、そして自己愛の実現のためには「観る自分」と「観られる自分」の関係性を疑ってはいけないということを理解していたのだろうか?いや、本作を読む限りではそうは見えなかった。克己を求めるために冷静な論理に走るからこそ、その先には精神と肉体のあくなき分離、「観る自分」と「観られる自分」の分離しかない。本作でもそうした二項対立がよく見られたものである。
ところで、私には「三島の文体は美しい」という世論がよく分からない。長年の疑問である。文体が美しいとは、どういうことだろう?例えば川端康成は文章が織りなすイメージ、文体というより文体によって生じる観念が日本美という美の一種を構築するが、三島のそれはそういうものとは違うだろう。文体の美しさというのは、それぞれの語の用法・調和を指しているのか?お化粧をした女の顔を美しいと崇めるがの如く、特異な言葉遣い・調和を成す文体を世間は美しいと言うのか?いや、しかし、この世の事物には着飾るだけでなく、素朴さ・単調さより生じる美というものがあるだろう、必ず。私は三島の全作品を読んだわけではないが、少なくともあの堅牢な文体は先述した通り、弱さへの精神的な反逆からくるものだろう。そうした克己から生まれる文体そのものには美もへったくれもなく、ただ必然性のみが存在するだけだろう。

