
DN/HP
@DN_HP
2026年7月15日

ミニチュアの妻
マヌエル・ゴンザレス,
藤井光
本と日記のある過去
久しぶりに翻訳された「海外文学」の読み心地を堪能した。日本文学のとある本を探しに行ったお店で偶然この本に出会った、というタイミングもなんか良かったな。
そうそう、これこれ、と思った「海外文学」を読む心地良さはどこからくるのか、と少し考えてみると、それは物語、文章とそれを読むわたしとの間にある距離感のような気がしてきている。違う国で育った作家が、訪れたことのない土地の舞台に、完全には理解出来ていない言語で書き、それを翻訳というまた別の言語のようなもの(「翻訳というのはそれ自体がひとつの言語のようなものですから。」多和田葉子『文字移植』)で書き直された物語の遠さと、それが今手の中にあり読むことが出来る、という近さ。その絶妙というか奇妙な、実際の距離では測ることの出来ないわたしだけの距離「感」がなんとも心地良いのかもしれない。そして、知らないわからないことの遠さとそれが読める近さというのは、「知らない誰かの考えを知りたい」という読書における根源的な欲望をより刺激し叶えてくれるような気もする。というのはちょっと大袈裟な気もするけど、この感じわかりますかね。わたしはちょっと書いていてわからなくなってきた気もしますけど。
その距離感というのはこの短編集に収録されているような、飛行機はダラス上空を20年間旋回し続け、妻はミニチュア化し、音楽家は耳から言葉を話し、オフィスワーカーのゾンビは「受付嬢」に恋をし、アフリカ大陸が沈没するような所謂「奇想」と呼ばれるような物語では特に重要で。
もし、同じような設定「奇想」が日本を舞台に日本語で書かれたとしたら、その距離の近さ故に「いやいや、それはないでしょ」とちょっと冷めてしまうかもしれない。それはまあ、想像力の問題でもあるけれど、そんな想像力の乏しいわたしには、距離の遠さと、それ故のわからなさの担保する「あるかもしれない、だってあの土地も言語もよく知らないから」みたいなリアリティが必要だったりするわけですね。そして物語にリアリティを感じることが出来れば、そこから現実になにかを持ち帰ったり、省みたりもより出来るわけで結果的に素晴らしい読書になるということでも、ある。
ああ、でも日本の小説にも「奇想」と言えるようなアイディアを扱ったものでもリアリティも感じて大好きなのもあるか、と即前言を翻しそうになっているけれど、それらの小説を思い出してみると、その文体には「翻訳」に近いような「遠さ」を感じていた気がしないでもない。
そんなことを考えているのも、この短編集の物語も文章/翻訳も、そこにある心地良さも全部素晴らしかったから、と強引に文章を締め括りたい暑さと蚊に翻弄された夏の日だった。











たま子
@tama_co_co
海外文学を読む時の「距離感が心地良い」という感覚にわたしもよくなります。その遠さが手元にあるという近さ。わからなさにわくわくし、わからなさに心を痛め、すこしでも近づきたい知りたいと読み進める……というような。『ミニチュアの妻』気になります!本屋で見かけたら手に取ってみます!
