ミニチュアの妻

ミニチュアの妻
ミニチュアの妻
マヌエル・ゴンザレス
藤井光
白水社
2015年12月20日
15件の記録
  • たま子
    たま子
    @tama_co_co
    2026年7月17日
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月15日
    久しぶりに翻訳された「海外文学」の読み心地を堪能した。日本文学のとある本を探しに行ったお店で偶然この本に出会った、というタイミングもなんか良かったな。 そうそう、これこれ、と思った「海外文学」を読む心地良さはどこからくるのか、と少し考えてみると、それは物語、文章とそれを読むわたしとの間にある距離感のような気がしてきている。違う国で育った作家が、訪れたことのない土地の舞台に、完全には理解出来ていない言語で書き、それを翻訳というまた別の言語のようなもの(「翻訳というのはそれ自体がひとつの言語のようなものですから。」多和田葉子『文字移植』)で書き直された物語の遠さと、それが今手の中にあり読むことが出来る、という近さ。その絶妙というか奇妙な、実際の距離では測ることの出来ないわたしだけの距離「感」がなんとも心地良いのかもしれない。そして、知らないわからないことの遠さとそれが読める近さというのは、「知らない誰かの考えを知りたい」という読書における根源的な欲望をより刺激し叶えてくれるような気もする。というのはちょっと大袈裟な気もするけど、この感じわかりますかね。わたしはちょっと書いていてわからなくなってきた気もしますけど。 その距離感というのはこの短編集に収録されているような、飛行機はダラス上空を20年間旋回し続け、妻はミニチュア化し、音楽家は耳から言葉を話し、オフィスワーカーのゾンビは「受付嬢」に恋をし、アフリカ大陸が沈没するような所謂「奇想」と呼ばれるような物語では特に重要で。 もし、同じような設定「奇想」が日本を舞台に日本語で書かれたとしたら、その距離の近さ故に「いやいや、それはないでしょ」とちょっと冷めてしまうかもしれない。それはまあ、想像力の問題でもあるけれど、そんな想像力の乏しいわたしには、距離の遠さと、それ故のわからなさの担保する「あるかもしれない、だってあの土地も言語もよく知らないから」みたいなリアリティが必要だったりするわけですね。そして物語にリアリティを感じることが出来れば、そこから現実になにかを持ち帰ったり、省みたりもより出来るわけで結果的に素晴らしい読書になるということでも、ある。 ああ、でも日本の小説にも「奇想」と言えるようなアイディアを扱ったものでもリアリティも感じて大好きなのもあるか、と即前言を翻しそうになっているけれど、それらの小説を思い出してみると、その文体には「翻訳」に近いような「遠さ」を感じていた気がしないでもない。 そんなことを考えているのも、この短編集の物語も文章/翻訳も、そこにある心地良さも全部素晴らしかったから、と強引に文章を締め括りたい暑さと蚊に翻弄された夏の日だった。
    ミニチュアの妻
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月15日
    「俺は心の中で考える。これで良かったんだ。何もかも。 そして、ロジャーや警備員やその他の人類のことを考えればもっと嫌な気分になるべきなのかもしれないが、俺たちにはこうした瞬間が必要なのかもしれないと考えてしまう自分がいる。静寂の瞬間ではなく、俺たちの人生が暴力的な悲劇、怪物、ゾンビどものせいでひっくり返される瞬間だ。それなくして、どうやって俺たちは夢見た男たちや女たちに出会えるのか?どうやって過去の過ちを償えるのか?どうやって自分の真の姿——勇気や思いやり、強さ、知性——を見せられるのか? そうだ、どうやって?」 ——「ショッピングモールからの脱出」 「人間にとってフィクションとは何なのか」と言われれば、普段は見せることの出来ない「真の姿」を描くものだ、とも言えるかもしれない。そして人間はその物語、そこで描かれる「真の姿」に影響を受け夢見ながら、今はまだ「真の姿」を見せることはできないけれど、人生が「ひっくり返される瞬間」がおどずれたならば……とその訪れるかもわからない瞬間を待ち望みながら生きているわけだ、といえなくもない。 逆にというか同時に、ゾンビに襲われてショッピングモールに閉じ込められる、ところまでいかなくとも、人生が「ひっくり返される瞬間」に遭遇したとき、今までに語られてきた物語、そこでの理想の「夢見た」人間の「真の姿」をロールモデルにして演じようとする、してしまう。みたいな気持ちもわかる。
    ミニチュアの妻
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月14日
    「セバリ族の失踪」 「偽造ではないわ。芸術作品は本物の芸術作品だけど、それはマーカス・グラントの作品であって、セバリ族のものではないってこと」 偽造された文化人類学上の発見は、その偽造が露呈することで「発見者」がそこに至るまでの経歴から作り上げた新たな人生という「芸術作品」になる。 「二人がやってのけたこと、意志の力だけで自分たちの新しい人生を作り上げてみせたことにほとんど賞賛の念を抱いている。そして私はこう考え始める——私にも同じことをする方法があるのなら、それを見つける努力を始めたほうがいいのかもしれない、ってね」 なるほど。「人間にとってフィクションとは何なのかという問いを突きつけてくる。」一編。
    ミニチュアの妻
  • Ayako
    Ayako
    @aya_rb
    2026年7月13日
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月12日
    「僕の中のゾンビには、いくつかはっきりさせたいことがある。 僕の中のゾンビは、僕の中にはゾンビそのものはいないことをはっきりさせたいと思っている。実際、いるのは僕だけで、僕のすべてがゾンビなのだと知ってもらいたがっている。」 ——「僕のすべて」 恋するゾンビのゾンビネス、その衝動と対処、あと選択について。とても良かった。
    ミニチュアの妻
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月11日
    「奇想」という言葉を使って紹介される小説を読むとき、そこにイメージされるのは現実離れした出来事や状況、それらにドタバタと右往左往する人々を大袈裟に滑稽に描くユーモラスな物語、とそんな感じで。 この本の一編目「操縦士、副操縦士、作家」もそんなイメージをもって読み始めた。ハイジャックされた飛行機がダラス上空を20年間旋回し続けている、というかなり破天荒な設定の短編。 作家が書き留めるその20年間の間の出来事や思索には、破天荒下故の滑稽さやユーモアがあって欲しい気がしていたけれど、実施にはそんな状況の中にも現実と同じように人生があり、人生があれば挫折、思い悩みがあり、悲しみや不安があり、死だってある。未来もあるけれど、そこから想像される未来には希望ではなくて、しっとりとしたあきらめしかない。あり得ない状況で描かれるそれらはより強烈に訴えかけてくる気がする。 これはシリアスに受け止めなければならない物語かもしれない。そう受け止めて省みてみれば不安にもなってくる。その不安はたしかな言葉にすることが出来ないけれど、訳者の藤井光さんの「訳者あとがき」にある「ポップカルチャーやSF的な要素を作品の設定に用い、そこから個人の抱え込んだ妄念や、歪んだ世界の姿をえぐり出していく」という文章を読んでみれば、わたし個人のなかのなにかもたしかにえぐり出された、ような気もしてくる。
    ミニチュアの妻
  • ランタナ
    ランタナ
    @lantana26
    2026年7月9日
  • ひねもす
    ひねもす
    @akiiro25
    2026年7月9日
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月9日
    昨日の午後もそうだったんだけど、古本屋さんがSNSにあげていた新入荷の写真に探していた本をみつけて、数日後にお店に行ってみたら既に売れていた、ということが何回かあって。わたしが探している本て、絶版ぽいけど特別レアな本でも話題でもない地味目な本だから、まだあるだろうって毎回思うんだけど、しっかり売れてるんですよね、毎回。まあそれは残念なんだけど、そういう本が入荷してわりとすぐに売れていって棚が回転していくお店ってやっぱり名店だよな、とかって勝手に納得して嬉しくなったりもして。そんな名店だから、もちろん目当てだった本とは別の、読みたい、読みたかった本も見つかるわけで、お店を出るときにはにっこりですよ。これも毎回。 この本はそんな風に出会って買ったのでした。
    ミニチュアの妻
  • DN/HP
    DN/HP
    @DN_HP
    2026年7月8日
    少し久しぶりの藤井光さんの翻訳。楽しみ。
    ミニチュアの妻
  • ゴンベ
    @gonbe5060
    2026年4月29日
  • 鈍獣
    鈍獣
    @whale_in_da_room
    2026年4月29日
  • toriitan
    toriitan
    @toriitan
    2025年4月5日
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