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miporingo
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  • 2025年4月3日
    チボー家の人々(3)
    チボー家の人々(3)
    子どもだったジャックも、この第三巻では20歳。気難しさは相変わらず。それにしても兄弟なのにこうも真逆な性格になるかと思うほどの楽観的で自信家のアントワーヌで「こいつー」と思わなくもないけれど、手術中の決断力や胆力は、さすがだしそのあとのもう一人の医師に対する謙遜ぶりなんかもたしかに魅力的ではある。そしてラシェルに恋してしまってからの舞い上がりぶりには笑う。 個人的にはフォンタナン夫人のジェロームへの気持ちが不思議。 で、そのジェロームなんだけどほとんど姿を見せないのにその存在感たるや。ダニエルが恋した相手が、な、なんと…(以下ネタバレになるので自粛)。
  • 2025年2月20日
    チボー家の人々(2)
    チボー家の人々(2)
    兄アントワーヌがジャックを少年園という感化院から救い出して一緒に暮らし始めるいきさつを主に描いた第二巻。可哀そうなジャック、傷ついたジャック。アントワーヌはもちろん善意の人なのだけれど、作者マルタン・デュ・ガールはこの優しい兄の中にある優越感や正義感に陶酔するところを描いてるのけっこう意地悪だけどそういうところがとても面白く、この作品に深みを出している。いまのところいちばん思慮深く描かれていると思われるフォンタナン夫人に対してさえ容赦がない。浮気な夫との離婚をグレゴリー牧師に考え直すよう説得されたときに「牧師様が許せとおっしゃるのなら許します」という夫人の言葉に牧師は心の中で「それでは許しの意味を成さない」と蔑むのですよ。もっともらしく発せられた言葉だし、ふつうに流してしまいそうだし、なんなら「夫人、よく許した」と褒めてしまいそうになるところだけれど、誰かに言われたからじゃあ許しますと言ってほんとうに許したことになるか、許しとはそもそもどういうことなんだろうと、立ち止まって考えさせられる箇所だった。 ジャックとアントワーヌがフォンタナン家を訪れた際のジャックとジェンニー、ダニエルとニコル、アントワーヌとフォンタナン夫人とのあいだのやりとりも読みごたえあり。 リスベットという女の子も登場し、チボー兄弟と関係していく。 生粋の聖人も根っからの悪人も出てこなくて、どの人もみなそれぞれに事情があり感情の起伏があり人間くさい。 ほんとおもしろいな。
  • 2025年1月20日
    チボー家の人々(1)
    チボー家の人々(1)
    ジャックもダニエルもまだ14歳。いとおしくて母のような目線で読んでしまう。なので、帰宅したときの二人が、それぞれの家族から真逆の出迎えられ方をするところでそれぞれに違う意味でグッときてしまった。ジャックの父よ、息子を愛しているのならもっと胸襟を開いて彼を受け入れてと思うのだけれど、父の沽券とプライドがそれを許さない。それだけでなくさらに、ジャックはその父が設立した少年感化院に送られてしまうことになる。一方ダニエルの母はただ息子を抱きしめて涙を流し再会を喜ぶ。こういう違いが子どもたちの感性や今後の生き方に影響を及ぼさないはずがない。これからどんな人生を送ることになるのか、というところで第一巻はおしまい。 本編はもちろんだけれど、店村新次さんのあとがきがよいまとめにもなっており着眼点もすばらしく、全巻通してよい教科書になってくれる予感。
  • 2025年1月8日
    イギリス人の患者
    イギリス人の患者
    第二次世界大戦中の北アフリカとイタリアを舞台にした物語。全身に火傷を負ったアルマシー、従軍看護師のハナ、盗人カラバッジョ、工兵キップの4人が偶然、元修道院の廃墟となった屋敷に留まることになり、溢れるほどの美しい隠喩や直喩が使われた詩のような文章を堪能できる。その装飾的なメタファーがわたしにとっては読みづらさにもなっており、自分は詩的情緒を楽しみ味わえるタイプの人間ではないのだなあと、あらためて認識したけれど、やはりその美しい文体が本書の魅力の大きな部分を占めていることは多くの人がレビューで書いている通りだと思う。 国籍の違うメインキャラクターの4人がそれぞれに相手を探り、愛し、記憶を手繰り寄せていく物語。わたしが印象的だったのは、映画では主人公となっていたアルマシーではなく、インドから来たターバンを巻いた工兵、キップの方だった。唯一欧米文化圏ではない国をルーツに持つキップが、彼らと少しずつ心を許し笑い合い、ハナと愛し合うほどにもなっていたのに、終盤に彼らの元を離れる決意をした理由が広島と長崎に落とされた新しい爆弾にあったということは衝撃的だった。映画でもまったく触れられていなかったし予備知識もなかったのでふいをつかれた。翻訳者の土屋さんはあとがきで、原爆がどういうものだったかということをキップはそれほど知識を持っていなかったのではないかと書いていらっしゃるけれど、キップの経験をもってすれば、知識を持っている可能性はあったとわたしは思う。さまざまな種類の爆弾処理を手掛けたり、大学の授業で「核」という言葉が使われるくだりなど、布石は置かれていた。 それと、キップの態度の豹変ぶりが現実的ではなく、これもまたオンダーチェの詩の一部と解釈しようというようなことも土屋氏は書いていらっしゃったけれど、これが誰よりも深く原作に触れたはずの翻訳者の解釈?と思ってしまったうーん。。。キップには逮捕され勾留されている筋金入りの反英反欧の兄がいて、一方でキップは差別を受けながらも白人社会に馴染もうと努力していた。自分を尊重してくれる白人との出会いもあり、命懸けの仕事に従事してきたというプライドを胸に、ちいさな差別には目をつぶってきた。それでも筋を通して拘留されている兄に対するキップの敬愛の気持ちや欧米人たちとのぎこちない距離感は本文の中に充分に感じられる。広島の悲劇に関するニュースを聞いたことで押し殺していた感情が溢れ出してしまったのだと思う。 (本文より) 「ぼくは二つの伝統のなかで育った。最初は自分の生まれた国。だが、あとでは、しだいにあなたの国。あなたのひ弱な白い島は、習慣と礼儀と本と宗教と理屈で、世界の他の国々を変えた。いったいどうやったのか。イギリス人といえば、厳格なマナーだ。ティーカップを持つ指だって決まっている。違う指で持てば、即座にテーブルから追放される。ネクタイの結び方がちがっても、放り出される。何があなたたちにそんな力を与えた。船か。それとも、兄が言っていたように、歴史と印刷機なのか。 伝道者の持ち込んだ規則がぼくらを変えた。最初はあなたたち。そのあとでアメリカ人。インド人の兵隊は、英雄になって「プッカ」と呼ばれたくて、命をむだにした。あなたたちには戦争もクリケットも同じなんだろう。よくもぼくらをだましてくれた。聞け、あなたたちがいったい何をしでかしたか。」 「ヨーロッパ人に背中を見せるな、と兄は言った。密約者、工作者、地図作成者に背を見せるな、 と。ヨーロッパ人を信じるな、握手なんかするな、と。だが・・・・・だが、そうさ、ぼくらはたわいな く圧倒された。あなたたちの演説と勲章と儀式に目がくらんだ。この数年間、ぼくは何をしてきたんだ。悪の信管を抜き、その手足を切り落としてきた。何のために。こんなことが起こるようにか。」 原爆のニュースを耳にしたキップは、非白人として、あるいはアジア人として、日本人を自分たち側とみなしている。 カラバッジョも 「(本文より)この若い兵隊の言うとおりだ、と思う。これが白人の国だったら、決してそんな爆弾は落ちなかっただろう、と。」認めている。 出て行こうとするキップと、キップを引き留めようとするハナの場面。 (本文より) 「屋根のない礼拝堂に女が入ってくる。男はすわりこみ、背中と頭をオートバイの車輪にもたれさ せている。 キップ。 男は何も答えない。視線は女を素通りする。 キップ、私よ。私たちとあれ(日本に原爆が使われたこと)となんの関係があるの。 女の前で、男は石。」 ハナは広島の爆弾が悲惨なものだと言うことは理解しているが、それは自分たちとは関係がないと思っていることがここで明らかになる。キップを「石」にしてしまう。 もうね、胸がぎゅうっとなってしまう。キップのこの時の気持ちを思うと。愛し合い信頼し合っていると思っていたハナでさえ、自分を真には理解していなかったのだ、という気持ち。そういう二重のショックを胸にキップはいなくなる。 この終盤の展開こそが、この美しい作品にさらに硬質なしっかりとした芯をもたらしているのだとわたしは思う。 映画はアルマシーとキャサリンの恋愛がメインだったけれど、原作はそうではなかった。映画を観て、世界を俯瞰すれば国境なんてない、という主張や美しい砂漠の風景に惹かれたけれど、原作は皮肉にも映画のそのテーマの浅薄さ、お気楽さをわたしに示すことになった(わたし自身の軽薄さも勿論)。白人と、非白人の間の心の溝はそう簡単には埋まらない。 原作では核となる最後のキップの決断の理由が映画で描かれていなかったのはアメリカ制作の映画だからという見方しかしようがない。これだからハリウッド映画というやつは…である。
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