

KOISHI
@palace
- 2026年9月27日
- 2026年9月27日
それから夏目漱石組織化された仕事、工業化された仕事をしていく上では人間としての理想を裏切らねばならない側面にであう。私自身そう感じることが少なく無い。資本主義社会が本格化し組織化工業化が加速しそのような自己矛盾がで始めた頃の話ではないか。 自己矛盾から逃れるためか、人が、国のため、世のため、社会のため、経済のためと言い出し始める。「世の中のためだから正しいのだ」と言って、その自己矛盾を誤魔化すことは、ある人にとっては難しくないのかもしれない。大義名分があるのだから。しかしそのような誤魔化しが通用しないほど、己の声に敏感であり、どう生きるかに真剣な人間にはそれが難しい。 どう生きるかというのは、現代では当たり前になってしまった「職業としての夢」や「社会的な目標」などでは当然無いのだ。人としての理想である。 代助は、その職業人間、社会的人間の自己欺瞞を見抜き、無職として距離をおきながらも、それに立ち向かうことなくやり過ごしている。世話になってもいる。典型的な社会的人間である父親との長年の接触により、それに反抗する気力を失っているからである。気付きながらも動き出せずにいた。 何故父や平岡は職業人間、社会的人間となり自己欺瞞に陥りしかもそれに無自覚であるか。 社会的評価がついてくるからである。進むべき道がわかりやすいからである。そうやって生きればそれなりの人生を歩めるからである。問いを抱えずに済むからである。 そうして世の中がその生き方を良しとするからである。そのような人間ばかりであればコントロールしやすい世界になることは想像に難く無い。それぞれが自分の本来の望みが何であるのかわからなくなる世界である。 理想的人間をもつ代助もかつて自己欺瞞に陥った。三千代を平岡に結婚相手として勧めたことである。代助の思い描く友情は自分の本当に大切なものを友に差し出すことであった。 人間は己の欲求に無自覚であってはならない。それは自己欺瞞なのである。 人はなぜ誰かの役に立ちたいと思うか。良いことをすると自分が嬉しいからである。人はなぜ他人が喜ぶことをしたいと思うのか。自分がそれによって幸せな気持ちになるからである。 その自覚がなければ、やってやったのに、という犠牲者的立場をとる自分が容易に出てくるのだ。それを繰り返せばやがて反応的態度で生きることが普通になる。つまづいた時に立ち直りが難しいのは自己というよりどころを失ってしまったからだ。平岡がそれであると思う。 常に己が己の好きのために、己の心地よさのために選びとって行動せねばならないし、それを自覚せねばならない。それが主体的に生きるということだ。 人間は心の声に耳を傾け、真に自分を喜ばせることに敏感でいる限り、道を誤ることは無いと思う。それが自分を大切にすることだ。そうして主体的に生きることで真に幸福に生きられるのだ。 人のため、正義のため、社会のため、友のため、とそれっぽい理由を作り出せば、自分を欺き、自分を傷つけ、他人と争うことになる。 代助は過去の自己欺瞞によって苦しんでいる。しかし父や平岡と違うのは自身の自己欺瞞に気づき、主体的な道を歩み出したという点である。道は険しく遠回りに見えるが、本当の幸福や心の平穏というのは主体的に生きること無しにはあり得ないと思う。 - 2026年6月10日
月と六ペンスサマセット・モーム,William Somerset Maugham,金原瑞人読み終わった人間の本質は愛であると思う。愛を離れた美、それは不自然なことであると思うし、恐怖も感じる。愛を離れ、美のみを追求することに果たして意味があるのだろうかと考えさせられた。主人公の生き方は、生活を離れていると思う。生活を離れた生き方は、結局依存的である。実際主人公は何度も他人に助けられ生きている。そしてそのことに無自覚なのか無関心なのか意に介さない。そうして芸術を突き詰めている姿は、私には、何か目を背けたい直視できないものからの逃避に映る。自分が作り出した芸術の無意味さを俺は知っているのだとでも言うように、自分の死後は全て処分するように指示して亡くなる。他人の嘘や自我に敏感で否定的でありながら、自らの自我には開き直りが見える。他人に否定的な人間は、自分にも同様に否定的であるはずだから、自己肯定できなかったこと、それによって苦しんだことは確かだろう。その穴埋めを、形だけの芸術、美の追求に求めてもそこに救いは無い。自分を肯定し生き方そのものをぶつけるのが芸術だと思う。そういうものが心を揺さぶる芸術であるとも思う。
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