夏目漱石こころ
5件の記録
さや@saya_shoten2026年2月26日読み終わった借りてきた@ カフェ去年から名作と言われる東西の小説を月に1冊読み始めた。読書会でざっくばらんな感想を言えると思うと頑張ってなんとかかんとか読める。(挫折した月も、読み終わらなかった月もある) 夏目漱石の「こころ」は今まで読んだ中で一番今の私に近い。というか、令和に近い。というか、2026年に近い。漱石の感覚が想定外に今っぽい。 随筆「硝子戸の中」読みたくなった。 p120. ~中略~ 「硝子戸の中」という随筆にみえるもので、生は究極、すべてにまさるということについて述べたひとくだりです。 「硝子戸の中」は執筆した時期も「こころ」のすぐあとなので、その点も例としてふさわしいと思います。 ~中略~ 「本当に光栄と思ひますか」 「思ひます」 「そんなら死なずに生きて居らつしやい」 p121. 漱石はその後、つらつらと考えました。 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死といふ境地に就いて常に考へている。さうして其死といふものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思ふ事もある。 「死は生よりも尊とい」 斯ういふ言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになつた。 (「硝子戸の中」、大正四年) しかし、そのように言いながら、その考えを現実に適用することはありえず、やはり「生は死より尊い」と考えている自分に漱石は気づくのです。なぜなら、死にも等しい苦しみを味わっている女性に「生きなさい」と言ってしまったのですから。 私は彼女に向かつて、凡てを癒す「時」の流れに従つて下れと云つた。彼女は若しさうしたら此大切な記憶が次第に剥げて行くだらうと嘆いた。
さや@saya_shoten2026年2月22日読んでる借りてきた@ 電車相手と同化して理解した気になる危うさ。覚えがあるから印象に残った一文。 p82. 私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋しくてしかたがなくなつた結果、急に所決したのではなからうかと疑ひ出しました。 「私のように」「私なら」こう思うから、相手もそうだろう、そうかもしれない、というのが相互理解のゴールだと学校で習ったけど、スタートなんだよね。 たった一人で淋しくてたまらず、命を絶った---。つまり、「孤独」です。その「孤独」とは、単純な淋しさを指しているのではないとわたしは思います。おそらくもっと深い、複雑な意味での孤独。 p86. そしてその迷いを唯一まるごと肯定してくれる可能性のあった親友にもぴしゃりと背を向けられました。これが、Kの味わった孤独です。そして、自分に残されている道は「死」よりほかにないと思ってしまったのです。絶望と言ってもいいでしょう。暗闇の中に一人取り残されて、頼るものが何もない、凍りつくような孤独です。 相手からバウンダリーを引かれてるだけなんだろうけど、背を向けられる感覚、覚えがあり過ぎる。私のように相手は私を理解しようとはしない。それに気が付くのにものすごく時間が経った。 p106. この「こころ」も、教養小説としても読め、純愛小説としても読め、友情小説としても読め、同性愛小説としても読め、どうとでも読めてしまいます。なぜ多義的に読めるかというと、漱石は「謎を投げ出す」だけで、「謎とき」をしないからです。なぜ謎ときをしないのでしょう。それは、おそらく謎ときをしないのが文学だからです。謎ときをしたらミステリー小説になってしまいます。 もう一つ言えば、人の心は闇だから、でしょう。どう分析しても、究極のところ人の心はわかりません。逆に言えば、暴こうとしても暴くことのできないのが人間です。そんな人の心の不可思議を、漱石はこの小説で描こうとしたのかもしれません。
だっしー@chik_4482025年11月11日読み終わった――……漱石の小説はこのように いくらでも 多義的な読みを許すところに大きな特徴があります。 ……なぜ 多義的に読めるかというと、 漱石は「謎を投げ出」すだけで「謎解き」をしないからです。(p106)
