時間と他者

4件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年3月28日かつて読んだこれこそ、もはや希望がないときの、あの受動性である。これこそ、私が雄々しさの終焉と呼んだものである。しかし、すぐに希望がよみがえる。そして、マクベスの最期の言葉はこうである。 「バーナムの森がダンシネインにやってこようとも、女より生まれざれし貴様を我が面前にしようとも、予は最後まで我が運を試そうぞ」。 死の前には、常に最後の運(チャンス)が、死ではなくて、英雄が捉える最後の運があるのだ。英雄とは、常に最後の運を見てとる者であり、あくまで運を見出そうとする人間なのである。したがって、死が引き受けられることは決してない。死はやってくるのだ。自殺なるものは、矛盾概念である。死の永遠の切迫性は、死の本質の一部をなしている。主体の支配が顕現する現在、そこに希望がある。 (p.62-63) 「英雄とは、常に最後の運を見てとる者であり、あくまで運を見出そうとする人間なのである。」 マクベスの生き様は、(一般的には)「英雄」には該当しない。 レヴィナスは、その死に様においては「英雄」であるとする。 Dem spiro spero、 「主体の支配が顕現する現在」、対して 日本の歴史(文化?)において、 菅原道真や平将門は「怨霊」。 生き恥(「悪あがき」という否定形)の忌避。 「英霊」という概念、三島由紀夫。 これらは「死」そのものではなく、 あくまでも死ぬ前の生きたかたち。 マクベスの死に様は、「非業の死」? 「鐘の音」? マクベスの生き様、死に様に関しての正解は いくら考えても自分の中では出ない。 ヒーローの定義は個人や文化により異なる。 それでもヒロイズムについては、 個々人の問いの領域にあり、 それもまた「希望」のひとつであると言える。 マクベスは、誰のものでもない「マクベスの死」を 手にしている。それはわかる。 「したがって、死が引き受けられることは 決してない。死はやってくるのだ。」 引き寄せられる死そのものには、所有格が薄い。 日影のうちには、自身の影、その輪郭が見えない。 だからこそ、「誰のものでもない死」のために 誰のものでもないヒロイズムと、 それにまつわる希望を最後まで捨てないこと。 日影のうちにも、人影を見出すこと。 レヴィナスからそのような励ましを受け取る。 「永遠の切迫性」を前に、バーナムの森とともに 深呼吸、文字通りの「不敵」の笑み、翳す剣 ーーマクベスの最期が、瑞々しく内に生成される。 そして、時間が流れはじめる。 "輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ、 浮んで行こう、よごれた霧の中をよ。" (『マクベス』第一幕第一場)
ジクロロ@jirowcrew2026年3月10日読んでるわれわれとしては、他者との本源的な関係は前置詞 mit (と共に avec)によって表わされるべきものではない、ということを明らかにすることができればと思う。 (p.5) 「あなたとわたし」、の「と」は助詞にあたる。 「わたしとあなた」とすると、「と」のはたらきが異なるような気がする。 前置きとしての前置詞、 日本語の助詞とはまた異なるはたらきを 為していると思われる。 「他者との本源的な関係は前置詞 mit (と共に avec)によって表わされるべきものではない」 「他者」という概念が、極めて日本的な響きを持たないということは直感的にわかる。 前置詞とは、自我を前提としたときに必要となる機能なのではないか。 レヴィナスが越えようとしている地平をぼんやりと想像しながら読み進めている。 にしても難しすぎる。 足りないシナプスと糖分。

ジクロロ@jirowcrew2026年3月10日読んでる自己同一性は、自己との無害な関係ではなく、自己束縛[自己を鎖で繋ぐこと]なのである。つまり、それはもっぱら自己に関わることの必然性である。始まりは、それ自身の重みで重いものとなる。それは存在の現在なのであって、夢の現在ではないのだ。自己同一性の自由は、その責任によって直ちに制限されるのである。これは自己同一性の最大の逆説である。つまり、自由な存在は、すでに自分自身に責任があるが故に、もはや自由ではないのだ。 (p.28) 朝の目覚めが、思考から始まるようになったのはいつからか。 もっぱら「自己同一性」に関する思考から始まる 朝は重たい。 月曜日の夜明けがしんどいのは、自己とそれに纏わる束縛が、時間の経過とともに脳を起点として、思考が身体に鎧うからではないか。 子どものころの、毎日生まれ変わっているような朝が懐かしい。 この文章を読み、なぜか反動的にそれを取り戻したいと思っている自分を感じる。 それもまた、レヴィナスの言うところの〈実存すること〉なのかもしれない。 その魔術にかかっているだけなのか。


ジクロロ@jirowcrew2026年3月3日買った主題と構想 この講演の目的は、時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、そうではなくて、時間はまさに主体と他者との関係そのものである、ということを明らかにすることである。 …… このような主張を強固なものにするためには、一方で、孤独という概念を深く掘り下げるとともに、他方、時間が孤独に与える数々の機会を考察しなければならない。 (p.3) この後、どのような展開になるのか、 全く想像のつかないこんな冒頭も珍しい。