幻肢痛日記
14件の記録
回寅治@Mawari_trahal2025年12月5日読み終わった借りてきた図書館から借りてきて積読しているうちに貸出期限日になってしまったので駆け足で。(以下感想) 筆者の青木さんが足を切断した直後、初めて体験する幻肢痛を捉えるためにドローイングや図を描いているのだが、それが味があって良かった。所謂美術館やギャラリーに並ぶドローイングのようにあらかじめ用意・想定されているものとは真逆で、幻肢の痛みが直接線に現れてくるような生のドローイングだった。 ドローイングだけでなく、書かれた時期に起こったパンデミックという出来事によっても「不確かさ」の思考を深いところで感じられた気がする。 青木さんの言う通り、幻肢痛とは言ってもここで書かれているのは「青木さんの幻肢痛」であり、そこにあるのは読者目線の不確かさ(わからなさ)だけでなく、現場の当事者にとっての不確かさ(微妙な違い)でもありうる。そこに留意しながら自分の幻肢痛に輪郭を与えていくことには切実さがあり説得力がある一方で、それを続けていくといつか自分しかわからない領域で他者に一方的に話すような形になりかねないのも事実だ。この問題に際しては本書中間以降、パンデミック当時の社会の変化が緩衝材として青木さんと読者の私の間を取り持った。 パンデミック以降、人と人の物理的距離を取ったり、身体を伴わずともオンラインで人とやり取りができるようになった。そのことによってか、(青木さんの述べる苦悩に対して私の実感を持って言えることがあるとするならば、)物理的な身体を同じ場に共有したり、そこからライブ感を持って他者の身体を想像する機会が減ってしまったように思う。中学生という多感な時期に外へ行くことを禁じられた世代の1人である私は、そういう機会からしか得られない交感のために、今後も本を読んだりワークショップへ行ったり講演会を聞きに行ったり、とにかく当時得られなかった感覚のために、何かしらの家の外のものへ向かい続けるのだろうと何気なく思いもした。いずれにしろ、「不確かさ」の中で漂い続けたり答えの出ない感覚はむず痒い心地がするし、それを楽しもうとはひと口に言えないような経験を私たちは(パンデミックで)している。青木さんの述べるように、「不確かさ」がどんなものなのかを、人生のさまざまな局面のさまざまな画角で問い続けていくことが大切なのだと思う。その方法が私にとっては、私の外側にあるものと(図書館や美術館や散歩などで)出合い直すことなのだ。
ホリモト@wheretheois2025年9月19日読み始めた開いてすぐに、この書き手の姿勢が好きだと思えて、よかった。 初めての人の文章を読むとき、文章から溢れる人柄に好感を抱けると、そのあと安心して読み進むことができるので。








高卒派遣社員@hidari_s2025年3月20日読み終わったフリーランスのキュレーターとして働く著者は、12歳の頃に骨肉腫を患い、人工関節への置換を受けた経験を持つ。 2019年9月に夜道でつまずいたことがきっかけで、右足に痛みを感じ医師に診てもらったところ、夜道の件とは別に、感染症の影響が見つかり、足を切断することをすすめられる。 右足の切断後は「無いものの存在」と向き合う日々が綴られている。闘病記のような文章をイメージしていたが、これまでに読んだことのないような不思議な本である。 知覚できるから存在するのか、存在しているから知覚できるのか。無いはずの右足、義足、義足のためのソケット、タトゥーなどを通して「ある」「なし」の狭間を何度も往復する。 幻肢の感覚や幻肢痛をアート作品のように様々な角度から見ているといえば良いのだろうか。おそらく読み返すたびに著者の思索のプロセスをなぞりながら新たな体験や認識が立ち上がってくるような気がする。












