ワーニャ伯父さん/三人姉妹

6件の記録
- CandidE@araxia2025年8月14日読み終わった人生に意味がほしい。もっと優しくされたい。できるなら、今からでも取り返したい。 年齢や立場は違えど、これらは誰もが抱く願望で、単なる現実逃避とは違う。生存本能の副産物として、精神安定装置の役割を果たす希望であり、その希望は副作用の強い、手近な人生の鎮痛剤だ。おかげで、私は今日もまた、生き延びてしまう。 本書に収められた両作品は、田舎で時間がドロドロと溶けていく人々を描く。『ワーニャ伯父さん』は中年の自己憐憫を、『三人姉妹』は若き夢の緩やかな腐敗を扱っている。 その『ワーニャ伯父さん』の自己憐憫は、読み手の年齢を残酷に測る装置として、正義が加齢とともに変質する真理を、いやでも浮かび上がらせる。一方、『三人姉妹』は夢の腐敗を通して、皆が同じ場所で足踏みしている、というぬるま湯の連帯感に浸らせる。どちらも、やるせなさと切なさを心に残し、しみじみと痛飲したい気分になる。 チェーホフは、日常の凪と内面の焦燥、そして時空の滑りが交錯する舞台に、ごく普通の人生を現出させる。そこに劇的な転覆はない。だからこそ、刺さる。痛い。辛い。 「未来の世界では、人びとは気球に乗って飛びまわり、ジャケットの形も変わり、ひょっとすると、第六感なんてものを発見して、その能力を大いに発展させているかもしれません。でも、生活のほうは相も変わらず大変で、謎だらけで、それなりに仕合わせなものなんでしょうね。千年経ったって人間は相変わらず、『ああ、生きてくのがつらい!』と溜息をついてることでしょう。それに、死を怖がって、死ぬのをいとう気持ちも変わらないでしょうね」――『三人姉妹』より 今日も、なんとか生き延びた。慢性的な人生への不満は、明日直視しよう。いや、明日はまた忙しい。今度の休みの日にでも。 「モスクワへ、モスクワへ、モスクワへ!」――『三人姉妹』より 生きていればきっと意味がある、って本当ですか? それは、現状維持の受動的な自己欺瞞ではありませんか? 体裁を繕うのはやめて、死に物狂いで、モスクワへ行っちゃいませんか?