凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論 上下合本版

2件の記録
- ハマダ@morningcitybooks2025年6月3日読み終わった蓮實重彦によると、近代とは生まれながらの詩人、生まれながらの小説家などもはや存在しえない時代であり、作家とは”物語を語る人ではなく、語られている物語と戦略的に戯れるほかはないという、多少とも倒錯的な存在へと変容”せざるをえず、そこでは当事者性さえもその”物語”を語る特権を保証するものとはなりえない。 “いかに語るかがすべてなのだ。何かを立証しようとする芸術作品など、何の値打ちもありはしない。何ごとをも意味せぬ美しい詩句は、何かを意味しているそれと同程度に美しい詩句よりも、秀れているというべきなのだ。 形式だけが救いなのである”
- サカグチ@hisuissugi2025年4月24日読み置き人に勧められた! 面白い! (4月25日追記) 読みの仮説 「凡庸さ」という概念が発明された経緯について論述する。筆者は「凡庸さ」をこのように提起する。 「凡庸」とは、よく読まれている日本語の辞典なら「すぐれたところのないこと」という定義におさまっているように、いささかも特殊な概念ではない。ただ、その定義の非゠歴史性に深くいらだった著者は、相対的な定義におさまりがちな「凡庸」という語彙を、「すぐれたところ」の不在とはおよそ無縁の絶対的な現実として定義しなおし、その歴史的な新しさを視界に浮上させることに意味を見いだした。 →「凡庸さ」は相対的なものではない。そして、それは近代になって「発明」されたものである。 では、その「凡庸さ」とはいったいなんなのか? 想定ポイントは以下の四つ ・遊戯 ・成熟 ・捏造 ・旅行者 大作なのでゆっくり読んでいく。