社交する人間

社交する人間
社交する人間
山崎正和
中央公論新社
2006年5月1日
12件の記録
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年7月30日
    こちらもずいぶん面白く、たいへん触発されたのだけれど、ちまちまちまちま一ヶ月かけて読んだ。欲望の達成は、あえて悠々と遅延させたほうがむしろ満足は増すのだとこの本でも示唆されていた。けれども、一気に読まされるのも、ゆっくり読むのも、どちらもよいものだ。速い方が楽しいか、遅い方が味わい深いかは、本ごとに異なる。読了の冊数なんかにこだわるのがナンセンスなのは、その本がどんな本なのかをまったく不問にして均質にしてしまうからだ。本はそれぞれに異質であるのに。
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年7月21日
    “社会の感情的な統合という観点から見たとき、近代国民国家が生みだした問題はしかしこれだけではない。多くの近代国家は義務とひきかえに国民に権利を与え、メンバーシッブの印しとして政治への参加を許したが、問題はその方法として広く採用された国民投票という制度のなかにあった。忘れてはならないのは、近代国家の選挙はつねに半ばは一種の祭りであり、国民の理性よりは感情により多く訴える儀式だということだろう。もちろん政策はさまざまな理念として国民に発されるが、その明晰さは祭りにおける宗教的理念、経文に書かれた教義ほどにも十分ではない。人びとは論理よりも象徴を通じて、標語やポスターやブラカード、運動員の制服や支持者のワッペン、候補者の容貌や演説の雄弁を通じて、漠然とした正義の感情を刺激される。国民にとって選挙期間は周期的に訪れる「ハレ」の日々であり、日常は忘れている国家の道義性、「選ばれた民」の使命観を思いだして、演出された関争心に駆られる時間なのである。 選挙は法と制度によって組織された理性的な国家が、数年に一度、政治秩序の公然たる紊乱を許して、国民感情のカタルシスをめざす医療行為の一面を持つ。だがそれはふたたび重要な一点で祭りとは異なるのであって、そのずれのために国民の感情に避けがたく逆説的な効果を及ぼすことになる。なぜなら前章の冒頭でも触れたように、一人一票の無記名投票は必然的に個人の判断を機械化し、人間の感情に白か黒かの単純化を要求する方法だからである。どんな祭りの参加者とも違って、民主的な投票者は感情の自然な強弱とは関係なく、自己を顔も名前もない一票として表現するほかはない。また感情には高揚の過程があり、むしろその起伏の過程が感情の内容であるのに、一票の投票には感情の決着点しか表しようがない。しかも祭りの感情表現には身体的なアルスがあり、それがまた感情の微妙な豊かさを生むのにたいして、投票という行動にアルスの生まれる余地はない。ここでは白い紙に記号を書くか、文字どおり投票機械のレバーを引くしか術はないからである。 極端にいえば、これは人間感情にたいする組織的な愚弄であり、侮辱的な感情数育の方法だといえるかもしれない。近代の国民は政治的な感情を抱くことを制度的に奨励され、それを抱いたとたんに自然な感情ではないものにするように訓練される。長らくこの愚弄と侮辱によって感情教育を受けた国民は、やがて無意識にみずからの感情を自己規制し、最初から白か黒かの感情しか抱かなくなるのは当然だろう。少なくとも政治指導者の政策提案に単純さを期待し、それが白か黒かの二者択一であることを好むようになるのはふしぎではない。とかく選挙では、社会の明快な敵を指名し、正義の闘争を扇動する指導者が喜ばれるのである。そしてまさにここに近代国家の内発的な危険が潜むのであって、民主主義そのものの根から全体主義が生まれる逆説的な土壌が培われることになる。民主主義の総本山アメリカが跡を絶たないポピュリズムの国であり、さらにいえばあのナチスがまさに選挙によって政権を奪ったことも、あながち偶然ではなかったといえるだろう。” p.242-244
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年7月21日
    “けだし集団としての人間はつねに賢明な存在ではないから、社会の感情的な統合がときに暴発に近づくこともやむをえない。また集団の目的志向の本能が暴走して、しばしば効率至上の鉄の組織を生むことも避けがたい。だが近代国民国家の不幸はこのあい反する危険の扱いを誤り、両者を相殺して緩和するどころか、むしろ重ねあわせて病弊を倍増したことだったといえるかもしれない。” p.242
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年7月12日
    "(…)経済の目的が富の増大であるとか、科学の目的が真理の追究であるといったかたちで、政治の目的をひと言で表すことは不可能である。政治が人間集団の秩序をつくるアルスであるのは確かだろうが、その秩序の観念はあまりにも多義的だからである。現に政治の理想はさまざまに語られてきたが、それぞれの歴史的条件を勘定に入れればすべては相対的でしかなかった。結局、政治は人間がただ集まって暮らすための知恵だというほかはないが、これはなんとジンメルのあの「純粋な社会化作用」、いいかえれば社交の原理そのものに似ていることだろう。いうまでもなく完全に没理想の政治はありえないが、過度に理想主義的な政治がつねに失敗するのは、たぶん政治が一面で社交だという真実を忘れたことの報いなのである。" p.220
  • 山崎は経済には二種類あり、政治もまたそれらに対応するように二種類あるのだという。 一方に生産と分配の経済がある。これには、安定した生産のために同質性が求められ、共通の目的と帰属意識を強めるような静的で組織的な統治が対応する。このような固定的で階層的な秩序原理は、分配の範囲を明確に定めるような排他性を帯びる。 もう一方に贈与と交換の経済があり、こちらは異質なものたちの対立を内包している。調停不可能なばらばらの他者同士が、それでも共存してやっていくための儀礼的作法の洗練に基づいて、絶えず信用と権威の所在が移ろうような商業と社交が繰り返される。こちらは動的で非組織的な統治が対応している。 政治的な場において、前者がナショナリズム、後者がグローバリズムとして提示されるものと相似的である。だいたいの対立は、政治観、経済観の対立というよりも、むしろ二種類のそれらを混同して語ることによって泥沼化しがちだという感覚がある。お互いに政治や経済の定義を争っているつもりでいながら、実は別種のそれらがすれ違い続けているのだ。
  • うおお、Readsに読書メモ書いてたらページの上にコーヒーこぼした。
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年6月27日
    社交場を作ろうと思います。「心の砂地#」というかっこいいポッドキャストを作っているシャーク鮫さんと一緒に。 かつてインターネットに感じた面白さって、受信者と発信者の垣根が容易に撹乱されるところにあったように思うのだけれど、いつしかフォロワー数なり、稼ぎなり、なにかしらの数値を元手にアテンションを稼ぐみたいな、そのへんにある「現実」の延長としてばかり目立ってる。 小さく、でも誠実に、なにかを作ったり考えたりしている人の居場所はどこに? ひとりでいると、何か作るのがただ楽しい、という気分を、スケールすることを気にせず保つのが難しい。でもべつに、熱々の仲間意識で群れたいわけでもない。ほどよく他人と雑談して、帰って一人で制作を再開する。そのくらいの塩梅の場所。 ざっくばらんに交流できて、新しい制作のきっかけになる。そんな場所が欲しいのでやってみる。 ここに行けば面白いことやっている人や面白いことを知っている人たちがいて、ジャンルレスにいい感じの触発がある、みたいな場所になっていくことを目指します。 まあ、ただ酒飲んでるだけなので、気軽にふらっと来てみてね。
    社交する人間
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年6月25日
    “まずダ・リヴァやタンホイザーの礼法書の眼目に注意すれば気づくことだが、それは要するに食物をあわてて貪るなという戒めであり、いいかえれば食欲の満足を急ぐなという教訓であった。これは欲望の本質から見て消費者にとって的確な忠告であって、当時の享楽的な上層階級にも著者の意図した以上の納得を与えたものと想像できる。なぜなら別の機会に繰り返し書いたことだが、食欲に代表される人間の欲望には宿命的な限界があって、それを急いで満足させれば快楽は逓減し、やがて苦痛に変わるという逆説があるからである。消費の快楽は消費を続ける過程にしかなく、したがって満足を遅らせ過程をひき延ばすのが快楽を増す唯一の道だということは、誰の目にも明白だろう。一見、面倒な礼儀作法がじつは飽食の限界を先送りし、結果として歓楽を増大させることは、粗野な中世騎士たちにも容易にわかったにちがいない。ここでは彼らの生理的な欲望そのものが、より高次の欲望である虚栄心や名誉欲、他人の称賛にたいする欲求を下支えしていたはずなのである。” p.143
  • Blue moon
    Blue moon
    @mimosamimi
    2025年6月24日
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年6月24日
    それ読みたいんだけど。
    社交する人間
  • 柿内正午
    柿内正午
    @kakisiesta
    2025年6月13日
    「社交」の機運が高まっている。
  • ゆう
    ゆう
    @suisuiu
    2025年6月8日
    ・社交は「何かを成す」ための手段ではない ・ただ社交するために社交する ・そのために各種礼儀作法が存在する。それが社交における「目的」で、追究するものではない。それらの行動や全てが「目的」に収斂されることを防ぐ。 ・作法がなくなったら成果や結果が「出てしまう」! ・目的論は時にすわりが悪い。効用や価値ありきの語りとなってしまう(!) (ケアと編集からのメモ)
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