Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
ゆう
ゆう
ゆう
@suisuiu
  • 2025年8月21日
    〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす
    正義感の扱い方が最近のホットトピック。正義感をどう扱うか。それはあくまで「自分の」問題なのか「みんな」の問題なのか。
  • 2025年8月21日
    なかなか暮れない夏の夕暮れ
    夏と多忙が重なる時期に読む
  • 2025年8月11日
    RIOT(2)
    RIOT(2)
    主人公たちが通う学校の中で、オリジナルのTシャツやZINEを売る場面があるんだけど(先生に怒られていたから許可はされてないみたいだけど)文化祭とかだけじゃなく、学校で日常的にそれができたら楽しいね。みんなが自分のつくったものを気軽に販売できる学校。その仕組みがあるだけでたすかる・嬉しい・仲間がいた!となる子も中にはいるのではないか。まあでも、学校でそういうの見せるのって恥ずかしいよね!そして利益を出そうとするのはけしからんとか学校にふさわしくないと感じる先生や保護者もいるんだろうか。まあでもいいじゃんね。ああどこかでそういうのコーディネートしたくなってきた。 で、やはりこういうものを読むと懐古的になる。はじめてつくった一応の冊子的なものは同じく高校生で、近所の古き良き喫茶店を数軒めぐり、勝手にメニュー紹介をするというもの。同じ部活のサキコとつくった。サキコは古着や音楽の文化を教えてくれる先を行く人で、今はニューヨークで着物を売っていると噂で聞いた。その冊子は藁半紙に手書き、コピーして部室に置いておくだけのもの。漫画のこの子たちみたいにデザインも企画も写真もさらにさらにも、こだわる発想すらなかったけど楽しかったな。ただつくった。
  • 2025年8月10日
    ハンチバック
    ハンチバック
    読み終わり、いろいろなインタビューや対談を読んでいる。市川沙央さんと荒井裕樹さんの往復書簡が凄まじかった。 ___ ・複雑なことを複雑なままに描くこと。 ・世間から守られると同時に遠ざけられてきた釈華の存在 ・女性差別と障害者差別。二つの差別が交わる世界を生きる釈華 青い芝やリブの運動の底にあったのは、「いのちの問題を自分の手に取り戻したい」という主張だったと思います。自分はどう生きるのか? 自分は誰のために、何のために、子どもを産んだり産まなかったりするのか? どうしたら自分の人生を生き切ったことになるのか? 障害者や女性は、生命や人生にかかわることさえ誰かから決められてきたのではないか。だったらそれを私に返してほしい――そう、彼らや彼女らの主張は、緻密に調べれば調べるほど「生命を肯定したい」という素朴で単純なところに行き着くのです。  人と人が、同じ人間同士、互いの存在感をかけて向き合い、受け止め合うことを、ウーマン・リブの女性たちはしばしば「真ま向むかう」と表現しました。似たようなことを、水俣病の運動家の中には「相対する」という言葉で表現した人たちもいました。 __ 市川沙央⇄荒井裕樹 往復書簡「世界にとっての異物になってやりたい」 https://note.com/bungakukai/n/n3981d9af1052
  • 2025年8月9日
    44歳、目的のないイスタンブール一人旅の日記
    おいしい、嬉しい、苛立ち、不満、むかつき、充足感、心細さ、誇らしさ、物足りなさ。そうだ、人って毎日いろんな感情や感覚をともなって生きているんだよな、本当に忙しいもんだよなあ、と思う。 その都度何かを判断したり、内省したりしなかったり、そのまんまにしたり、行く末は様々なんだけど、とにかくわたしたちって感受せずにはいられないせわしない生き物なんだなあ。旅はいいなあ。花田さんの正直さと率直さが好き。特に、散策中に出会う男性との別れ方がとても良くて。さっぱりとやさしい。
  • 2025年8月7日
    スクリーンのなかの障害
    あー面白かった。ショットと構造で見る映画の話。 ・障害者表象とは、何が描かれているかというよりも「何が描かれているように見えるか」 ・映画の中における「医学モデル的な障害観」 ・行使されるスティグマだけでなく「感受」されるスティグマの話(恐怖心、羞恥心) ・「僕はふつうじゃない、でもみんなふつうじゃない」 ・人間のコミュニケーションは人為的である。コード化されたシンボルに基づいている。 ・映画で描かれる「不全」から「達成」と、社会的文化的コードによる排除 ・障害者が健常者を「嘲笑う」、不全の継続性 ・視覚的聴覚的に再現される障害
  • 2025年8月3日
    44歳、目的のないイスタンブール一人旅の日記
    わ〜い
  • 2025年8月3日
    スクリーンのなかの障害
  • 2025年8月2日
    恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ
    幼少期にアメリカで暮らしていた60代の人たちが日本で巡り合い、これまでのことを思い出しながら今をつながり合って暮らす記憶と反芻の物語。 今までたくさんの川上弘美作品をそれこそ子どもの頃から読んできて、安易に1番とか言いたくないんだけどそれでも思わずそう言いたくなるのは、わたし自身に記憶と反芻の時間が少しずつ増えてきたからなのかもしれない。
  • 2025年7月29日
    恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ
    とても良い。 6-7月、想定以上にめまぐるしくうねうねとまめまめと働きんぐ(働くのing形)で先週、久しぶりに本屋さんに行った。当たり前だけど本も雑誌も漫画も絵本もめちゃくちゃそこに存在していて小躍り。うへへ。こんなに読めていない本がある!知らない漫画がある!ということでいくつかまとめて本を買った。特に小説が足りていなかったのだという気付き。仕事でさらうべき本や映像を優先していたけれど、物語分の不足、物語や物語、ああ物語よと恋ははかない!
  • 2025年7月11日
    わからなくても近くにいてよ
  • 2025年7月10日
    とびこえる教室
  • 2025年7月10日
    44歳、目的のないイスタンブール一人旅の日記
  • 2025年7月3日
    言葉を失ったあとで
    言葉を失ったあとで
    上間陽子の研究室に入るために引越したい気分
  • 2025年6月22日
    となりのヤングケアラー
    職場の隣のチームでヤングケアラーの事業をしているにも関わらず、思ってた以上に表面だけしか知らなかったんだなと顧みている。そしてもちろん、まだまだほんのほんの表面しか知らない。幸いなことに20歳前後で親元を心身共に離れることができた私はどこかさっぱりきっぱり考えすぎるところがあり、どうしても「そうすることのできない」人への想像力に欠けるところがある。ということも改めて自覚できた。なんでそうしないの?と無自覚に否定してしまっていたこともきっとあった。 ヤングケアラーの抱える気持ちは愛と憎しみの二項対立ではない。「世界でいちばん憎くて、世界でいちばん愛してる」のだけど、親の「代わり」をすると自分が溶けて失くなってしまう。お手伝いとは違い、そこから逃れる選択肢はない。参考書籍もいろいろと読んでみたい。
  • 2025年6月20日
    言葉を失ったあとで
    言葉を失ったあとで
    現状に言葉を与え続けてきたふたりの会話が、もう 上間さん「わけのわならなさの射程がグッとちっちゃくなる、そういうこととして理解が考えられるかなと思います」 信田さん「おっしゃったように、射程が小さくなるということは明晰になることですね」
  • 2025年6月17日
    ケアと編集
    ケアと編集
    もっと仕事論みたいなものなのかと想像していたけれど、思っていたよりもケアの世界のアクチュアリティみたいなお話が多く、すごく面白かった。心地良いおしゃべりをしているような流れる文体、に潜んで(実は潜めてもないと思うけれど)すぐ水面下にある重厚さをわたしはまだぜんぜん読み解けていないと思う。でもそれこそ、この本との向き合いに必要なことは「読み解こう」という積極的能動的スタンスでもないような気もする。とりあえずもう一度はじめから読んで混ざり合いたい。 ちょうど当事者研究風の集まりの練習をしたタイミングだったので、そういう意味でもちょうど良いタイミングで読むことができた。やっぱりあれは続けよう。
  • 2025年6月8日
    社交する人間
    社交する人間
    ・社交は「何かを成す」ための手段ではない ・ただ社交するために社交する ・そのために各種礼儀作法が存在する。それが社交における「目的」で、追究するものではない。それらの行動や全てが「目的」に収斂されることを防ぐ。 ・作法がなくなったら成果や結果が「出てしまう」! ・目的論は時にすわりが悪い。効用や価値ありきの語りとなってしまう(!) (ケアと編集からのメモ)
  • 2025年6月7日
    ケアと編集
    ケアと編集
    サブスタンス鑑賞前に(すごかった)(はなしたい)。ここの映画館、待合スペースに椅子やソファが多く置かれている。椅子があると歓迎されているように感じるねどうぞどうぞごゆっくり。 いま思うと、ひたすらに今を眼差し続けるケアの世界からの、さらに高みを目指し続けるサブスタンスの世界って幅感がすごい🌏
  • 2025年6月5日
    ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる
    15年くらい前、苫小牧行きのフェリーで卒論のために『フランケンシュタイン』を読んでいた。飛行機に乗れたらよかったけどお金がなかったので、一番やすい等級の船底の客席。海をダイレクトに感じるとてつもない揺れ。ダニの皆さんがいっぱい住んでそうな毛布。修行中のような枕。なんでこんなにお金がないんだろうと情けない気持ちになりながら、でも「ひとりで(それも年数回ずつ)フェリーに乗る女」ってきっといつまでも思い出&ネタになるとどこかしぶとく感じてもいた。だってなんだか演歌みたい。その頃の私は演歌番組のアシスタントディレクターのアルバイトをしていた。うねる声、くねる身体。 それで『フランケンシュタイン』。ホモソーシャルとかミソジニー、フェミニズムをテーマに書いた。断片的な知識すぎる、学部生だからこそののびのび感のあった卒論だろうと思うけど、なんにせよなんだか元気でいいテーマだ。それでここ数年なんとなくフランケンシュタイン的なものがまた目につくようになっている気がして、だからこの本はやっぱり気になる。でも昨日夫とこの物語の舞台について話した時、堂々と「ロンドンでしょ」とか言ったけどジュネーブだった。そうだ。 一番好きなシーンは、怪物がさまよっていた森の中でそこに棲む植物や生きもの、川の流れとたわむれ、命のかがやきみたいなものとダンスするシーン。でもこれも妄想かもしれない。
読み込み中...