群像 2025年 4月号
20件の記録
Ryu@dododokado2026年3月23日読んでる「僕と「先生」⑧」 だが、ここで一つ見ておく必要があるのが、「内在」に対する考え方に変化が起きていることについてだ。『アメリカの影』から『敗戦後論』へ、戦後日本に対する内在的な思索を続けてきた加藤さんは『人類が~』に至る前に、二〇〇〇年の著書『日本人の自画像』で、「内在」という概念自体を深めている。 この本は、自画像制作──鏡に映った自分の像に抵抗しながら、自己を描き出す画家の方法──のようにして、日本それ自体を内在的につかみ出そうとした近世以降の思想家を論じた一冊である。荻生徂徠、本居宣長、近代の福沢諭吉、柳田國男らのその抵抗の仕方を詳しく見ながら、「内在」にはじまる自己省察はそれだけでは不徹底な思想として終わることが言われている。 内在的な思想だけでは、他者との関係の世界と衝突することがない。内在的に取り出された思想は他者との関係のなかで、このままではダメだという屈折を経験することによって「内在」から「関係」の思想へと移行する。内在的な省察はこの契機を摑まなければならない。だから、考えるべきなのは内在的な思想が関係の世界とぶつかり、屈折する、その動態なのである。 とはいえ、そのとき「内在」を否定してはならない。〈なぜなら、この「内在の方法」は、ある盲目的な状況にいて、そこで問題にぶつかる人間が、そこからものごとを考えてゆく際の不可分の道程を、象徴しているからだ〉。それゆえに「内在」を認めた上で、次のように考える必要がある。〈この内在の方法はよい、しかし、それは別の観点に“転轍”されなければ、必ず誤る。この方法は、自己から別個のあり方への“転轍”を繰り込むことを、本質的に要請されている、と〉。 こうして〈転轍〉という列車が進む線路をスイッチングするときの用語を比喩として使う加藤さんは、〈つまり、これは、自らをまっとうさせようとすれば、自分を「関係」へと“転轍”させなければならない、そういう思想なのである〉と結論づける。 局外的にもっともらしい「正しさ」を押し付けるのでもなく。内在的な省察で取り出された思考だけを言じるのでもなく。内在的にものごとを考えていった先で、他者との関係の世界にぶつかり、その衝突のなかで新たな世界認識を得ること。この道筋をたどらなければ思想は必ず誤るし、その誤り自体にも気づけない。『日本人の自画像』で導かれた、以上のような思考の原理は『人類が~』にも生きている。 有限性の時代にあって、資本主義社会や技術革新を外在的に批判してきた〈閉塞系〉の近代文明論。前期近代から後期近代へと移行するなかで変容した社会や人間の様態を内在的にあげつらうことに終始した〈開放系〉の思想。重要なのは、どちらかに足場を置くのではなく、その両輪で考えを進めた先で「内在」から「関係」へと“転轍”することである。『人類が~』はそのための実践の書だったのだと、いま、僕には感じられる。521-2

Ryu@dododokado2026年3月8日読んでる安藤礼二「大江健三郎論②」を読む。 「「火見子」の口を借りて、大江がここで述べていることは、「怪物」の誕生以降、つまりは『個人的な体験」以降の、大江の小説の書かれ方、その核心を過不足なく語るものであろう。小説とは、いまここに「多元的な宇宙」を創り出すものなのだ。現実から分岐し、現実を分岐させる「多元的な宇宙」の創造こそ、小説を、いまここで書き進めていくということに他なるまい。頭部に「崎形」をもった子どもの誕生をめぐって、この現実とは異なったもう一つの宇宙、フィクションとしての宇宙が形づくられていく。その宇宙、フィクションとしての宇宙は、この後、新たな小説が書かれる度ごとに、さらなる分岐を繰り返していくであろう。しかも、自身の小説原論でもある、そうした「多元的宇宙」が語られているのは、現実とは完全に異なったフィクションのなかで、なのだ。それゆえ、現実はフィクションとなり、フィクションは現実となる。頭部に「崎形」をもった「赤んぼう」が現実の世界で死ぬとしたら、フィクションの世界ではよみがえるであろう。同様に、現実の世界で生きるとしたら、フィクションの世界では死ぬことになる。」225-6














