ワントン イヌの科学

8件の記録
中根龍一郎@ryo_nakane2025年11月29日読み終わった昔、たいへんお世話になったある校正者の方と飲んでいる時、そのひとが犬を飼っているという話になった。たしか三匹(四匹だったかもしれない)の小型犬がいるという話だった。小型犬は、吠えたり、大変じゃないですか、と訊くと、その人は微笑みながら首を振り、いや、しつけ次第です、と言った。 ゴールデンレトリーバーが子供のころ家にいて、優しくて、穏やかで、臆病な犬だった。犬はそういうものだと思っていたから、小型犬を飼っている人と犬の話をすると、いや、大型犬と小型犬は全然違う、と言われるのが常で、小型犬は攻撃的、大型犬は温厚、というイメージが自分のなかに強くあった。 おおむねその傾向がある、というのは正しいらしいのだけど、犬の性格は、実は遺伝的な規定性が、ヒトにくらべて低いのだという近年の研究の話は目を引かれた。麻布大の今野先生の話が紹介されている。 「(…)先ほどの論文でとくに強調されていた点が,イヌの見た目から受ける印象にわれわれが引っ張られる部分もあるという点です。つまり,偏見的な見方をせずに,犬種の中でのバリエーションよりも個体差のほうが大きいため,犬種というレッテル貼り的な見方から脱却せよ,ということをのべています」 (『ワントン』p.47) 「犬っぽい人」とか「猫っぽい人」という表現がふつうに使われるように、あるいはすこし犬について理解が深い人であれば「小型犬っぽい人」「大型犬っぽい人」という表現を使ったりもするように、犬や猫、小型犬や大型犬について、ある程度こういう性質・性格の動物である、ということの合意が、われわれの文化の中にはある。でももちろんその合意とは偏見のことでもある。ある偏見が広がり、共有され、強化されることによって、生きることの困難を科される個体が現れる。それは人間の場合とあまり変わらない。もちろん愛玩動物や使役動物と人間では、その個体の意志や権利をどれくらい考慮するかという点で一緒にはできない面がある。ただ一方で、個体としての犬(や猫)を伴侶動物、ともに生きていくパートナーとして考えた時、そこに現にいる個体をどう見るかは、すこし毛色の違った問題になってくる。 そこにパートナーとしての犬がいるとき、私たちは基本的にその犬を個別の尊厳をもった生き物として見る、というか、見てしまう。チワワだとかプードルだとか、レトリーバーだとか日本犬だとか、オオカミの傾向を残しているとか残していないとか、そういうところからはなれたひとつの個体として、個体としての性格を持った愛することができる一匹の動物がいる。でもその個体の性格の理由づけを、私たちはしばしば「まあ、大型犬だからね」「小型犬はこうだからね」というような、それ自体は愛のある許しとともに、その個体の属する種のレッテルに依拠させてしまうことがある。そこには愛があるため、愛によって有責性がぼやけてしまう。そしてそのぼやけは、犬との関係にかぎらず、他者との関係全般において、実はしばしば現れるものだ。 もうひとつ、おもしろかった話として、犬と人はけっこうゆるい絆をもち、その絆がゆるいからむしろ関係が成立するのだ、というものがあった。盲導犬や介助犬は、母犬、トレーナー、ユーザー、引退犬ボランティアと、生涯で絆をむすぶ相手が何度も変わる。一生に一度のものではない、唯一無二の相手にはしない、大切でありながらスイッチ可能な絆を犬は持つのだという(これと違い、イヌ化する前のオオカミは群れの絆が強く、固定化した関係を結びやすいのだそうだ)。 忠犬、という言葉や、尻尾を振るポチ、○○のイヌ、のような罵倒まで、犬の忠誠は私たちの言語感覚に根づいている。そしてそれもまた、犬を取り巻く偏見のひとつにすぎない。








