
本箱
@POPUP7days
- 2026年6月23日
命売ります三島由紀夫読み終わった三島由紀夫は初めて読んだけど、スルスル読めた。想定よりずっと読みやすい。 読んでいて「人は自分のなかで合わさったパズルを本当だと思い込んでしまう」という性質があるなあと思った。私も含めだし、たぶんそれが感情とか自我とか主観というものだろうけど。 主人公の羽仁男は、「命売ります」という看板を掲げた結果、思いもよらない見方をされて困惑する。 そんなつもりはないのに、こうだと思われて話がとんとん進んでいく。 随所の表現を見て、本当に久しぶりに日本文学を読んでるなあと実感した。日本文学というか、近代文学かな。言葉選びに風情を感じる。三人称で、心情描写がしつこくない。 じししようとした理由も、なんとなく想像しやすい。拭いきれない不快や無意味さが全てにおいてある、のかな。 知っている地名が出てくるのも不思議な心地がする。主人公の動線を脳内で負いやすい。どうも最近、ファンタジーな世界観の本に身を置いていたせいかも。もちろんこれもフィクションではあるけど。 自分が人生を左右できるうちはあくせくしないのに、振り回されているとなるとしがみつきたくなる。矛盾がよく表れていた。 作中に出てきた『すべてを無意味ではじめて、その上で、意味づけの自由に生きる』という部分には感じ入った。 前提が石ころであったとして、そこにどんな光・色・価値を乗せるかは自由ということ。 だとすると『まず意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面するという人間は、ただのセンチメンタリストだ』というのは、光・色・価値がもう固着しているか強すぎたか。大仰な話ではなく、当たり前になってしまっている部分なのかな。 作中でも、羽仁男のセンチメンタルは点滅してる。後半は特に。 他の三島由紀夫の作品や、夏目漱石などをまた読もうかな。 - 2026年6月17日
ムーミン全集[新版]7 ムーミンパパ海へいくトーベ・ヤンソン,小野寺百合子読み終わったムーミンシリーズ読了。 ムーミントロールと大きな洪水→ムーミン谷の彗星→たのしいムーミン一家→ムーミンパパの思い出→→ムーミン谷の夏祭りムーミン谷の仲間たち→ムーミン谷の冬→ムーミン谷の十一月→ムーミンパパ海へ行く の順で読んできた。 途中おそらく順番が前後してる。 でも、最初の「大きな洪水」ではひとりでどこかに行ってしまったパパを探しに行くお話だったから、家族皆でムーミン谷を離れる「海へ行く」で読了できたのは、対比も感じることができて良かった。 シリーズ通しで読んで、お話として好きなのは、ムーミンパパの思い出とムーミン谷の彗星、ムーミン谷の十一月に収録されている『春の調べ』かも。 いや、『世界の終わりに怯えるフィリフヨンカ』も、ムーミン谷の冬も好きだな…。 ムーミンパパ海へ行くでも、ムーミントロールと大きな洪水でも、共通して好きなのがムーミントロールのムーミンママに対する声かけ。ちょっと気分が落ちていそうなママをそっと慰めたりこっちだよと手を引いてあげるムーミンの姿がまぶしい。思いやりにあふれた男の子。 ムーミンママも、いつも悠然として穏やかなママだけど、この2作では泥臭い部分も見かけることができて身近に感じる。 ムーミンパパは、もはやどうしようもない冒険心が可愛くさえ思えてきた。何者かでありたいパパは、つい呆れてしまうけど、こういう暴走に身に覚えもある。さすがにわたしは海を渡ったりはできないけど、それをやってのけるパパなのだ。 これを踏まえて、ムーミン谷の十一月をもう一度読んでみようかな。 - 2026年6月16日
ムーミン全集[新版]8 ムーミン谷の十一月トーベ・ヤンソン,鈴木徹郎読み終わったムーミン一家がいないムーミン谷のお話。 不在がムーミンたちの温かさをむしろ強めているような不思議な感覚。 不在の家で好きに暮らし始める面々に「えっいいの?」と思っちゃうけど「まあムーミンたちは怒らないし、笑って『そうなんだね』って言うだけかも」とも考えたりする。 去ってしまったのか、出かけただけなのか、会ったらムーミンたちが何かをもたらしてくれるのではないか。ヘムレンさんはムーミンパパに、フィリフヨンカはムーミンママに投影し、スタルックおじさんはご先祖さまに自身との共感を求め、ホムサは申し分ないママとしてムーミンママを求める。 しかしそういった幻影は、一家に会う前に皆目が覚めて家に帰っていく。 スナフキンが「ムーミン一家とだったら一緒にいても孤独でいられる」と作中でこぼしていたが、ムーミンたちは共感を他に多く求めず、それぞれであることを許してくれる。パパは冒険 それが、不在であってなお機能しているんだなあと思った。
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