Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
mikiko1732
mikiko1732
@mikiko1732
アイコンはアイルランド チェスター・ビーティー・コレクションより「長恨歌絵巻」から海上の仙山に至る方士
  • 2026年9月12日
    帝国の死角 第二部・神々の黄昏 (中公文庫)
    一部は第二次大戦中の欧州はドイツが舞台で、主人公は帝国海軍所属の駐在武官です。二部は戦後の日本に飛んで、その駐在武官の子どもたちが主人公となり、大戦中の埋蔵金をめぐって新興宗教も絡んで、当然人は死ぬし、まあきな臭くてどうなるのーと呑気に読み進めていたら、最後の最後で、!!! 二部構成を取っている理由もその立て付けも綺麗に回収して幕を閉じます。 正直、本編(特に一部)を読んでいる間はあまり面白く感じられなかったのですが、もうほんとうに最後の最後できっちり風呂敷を畳んでくるので読んでよかったです。
  • 2026年9月12日
  • 2026年8月27日
    オールド台中食べ歩き歴史小説家が案内する老舗屋台の味
    オールド台中食べ歩き歴史小説家が案内する老舗屋台の味
    待ってた。いつの間に出てたのよ。 それはさておき。 著者おすすめの台中市内の老舗の料理の背景を語った本。ちょいちょい日本統治の影響の話もあり、料理を通して台中の歴史もそれとなく知ることができる、著者の得意技が炸裂したエッセイ集です。 気になる点も多々あります。 「天天饅頭」で取り上げられる揚げ饅頭。比較対象として著者は浅草の揚げ饅頭をあげていますが(たしかにあれは揚げ饅頭という名前だし)、文章を読む限り日本で言うかりんとう饅頭が近いんじゃないかな。衣がついていない、揚げてある、という点が同じだし。わたしが食べた宇都宮は高林堂の「かりまん」、東京谷中の福丸饅頭のかりんとう饅頭、どちらも衣なしで饅頭が揚げてある(もちろん、どちらもおいしいです)。天天饅頭、食べてみたい。 それから、台湾でいう「長崎カステラ」は日本でいう「台湾カステラ」なのか、それとも日本の長崎カステラと同じものなのか。本書を読む限りでは「台湾カステラ」のようだけど・・・食べてみないとわからないなあ。食べてみたいなあ。 他に「アドゥおじさんの冷凍芋」であるタロイモ。食べてみたい。タロイモ、苦手なんだけど、そんなにおいしいというのなら食べてみたい。挑戦してみたい。 全体を通して暑い国ならではのかき氷とドリンク類(特に紅茶)が頻出している印象がありますが、ドリンク類は食事のお供としても出てくるので、そういった印象になるのかな。 台中、行ったことないんだよなー。本書を抱えて行ってみたいなあ。
  • 2026年8月15日
    消滅世界
    消滅世界
    これはどういう物語なのかを自分の中で消化できずにいる。 いくつかの章に分けて共通して語られるのは「性行為」であり、徹底してその「性行為」を取り除こうとする社会を描いているようにも見えるが、どうにも違うように感じる。「性行為」を通じて生まれる「縁」を描いているのかと思えば、自分の中で納得もいく。夫婦の縁、家族の縁、それらは基本的に性行為を通じて生まれるものだから。それらを徹底して取り除こうとしている社会を描いた、というなら、狂気じみた母親の描写はそれに対するアンチメタファーであり、最終章の舞台が夫婦という形すら許されず、家族という形を解体した実験都市が舞台になり、夫(正確には元夫)が男性初の出産に成功するのもわかる。そこでは「縁」は徹底的に解かれ、世界は消滅に向かっていくように見える。 しかし、あの結末。 主人公は結局、母親のかけた呪いから逃れられず、「性行為」を通じて新たな「縁」を結ぼうとしたのか。それにしては、あの結末はグロテスクすぎて、わたしには受け入れられない。あの結末は蛇足じゃないかと個人的には思うけれど、それによってずるずると物語がまとわりついて、ついつい物語について考えてしまうのだから何とも言えない。
  • 2026年8月11日
    聊斎志異
    聊斎志異
    同名の中国の怪奇幻想小説集の中からこども向けに抜粋された短編集。 最初に載っている「道士と梨の木」からして、これは夢枕獏の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」で読んだやつ(むこうは瓜だったけれど)!と、読んだことがある物語があれば、まったく知らない物語もあり、どこかで読んだ気がする物語もあり。どことなく日本の昔話に似ているような気もしつつ、そんなこともなく。 短いながらもどうなってしまうんだとドキドキしながら読む物語もあり、どの物語も短いながら読み応え充分です。そして、怪奇幻想小説集の名の通りさまざまな不思議な物語が収められています。読んでいて楽しかった。 個人的にはノミや南京虫を退治してくれる「小さな猟犬」のお話が愛おしかったです。
  • 2026年8月7日
    ナショナリズムとは何か
    ナショナリズムといえば個々人が内包しているものと思っていたのですが、そうではなく、またそうでもあり、といった曖昧模糊な《ナショナリズム》を計量的な側面から解説していく様はわたしにとって目から鱗でした。 最初に「まず、ナショナリズムは何よりも政治にかかわる意識だということである」と定義しているように、ナショナリズムが政治から影響を受け政治に影響を与える様をデータと共に示していく本書は新鮮でした。こんなに⁈と驚くこともあり、なんとなく肌で感じていたようなことも本書で解説されており、自分の中では自分の意識を見直し、明確化、再構築するきっかけになりました。 意外だったのが、欧州で女性の権利拡大やLGBTの権利擁護を掲げるいわゆるリベラルな層が排外主義的なナショナリズムを掲げる政党を支持する率が上がっていること。相反する主義同士でなぜ?と思うも、本書を読む限りではああなるほど、そういう理由でと、納得いきます。 最後に著者のことばではないけれど、印象に残った文章を本書から。 ”「本来、ナショナリズムは未来志向なんです。考えてみてください。私たちはなぜ税金を払うのか。それは、たとえば公園や美術館を維持するためだと考えて納得します。その前提となっているのは、国家は将来も存続し続け、自分の孫や子たちもきっとこの国で生き続けるというゆるぎない確信です」。これは、ナショナリズム研究の第一人者アンダーソンが、日本の新聞のインタビューで述べた一節である。“
  • 2026年7月29日
    言語哲学がはじまる
    むちゃくちゃ刺激的な本でした。 外国語の学習法かな…これは叙述トリックの盛大なネタバレなのでは…と思ったりもしながら(まったく違います)読み進めていきました。わからないところも多々ありましたが、そのわからなさがおもしろい。 惹かれる文章も多々あり。 ヴィトゲンシュタインに入る4章以降が特におもしろいな!と思ったら、著者の専門がヴィトゲンシュタインでした。 繰り返し読みたい本です。
  • 2026年7月17日
    語学の天才まで1億光年
    語学学習法の本かと思って呑気に読み始めたら、まったく違った。 突撃!となりの外国語! みたいな感じかな。 ともかくめちゃくちゃ。 カオスである。 インドから始まり、アフリカ、ヨーロッパ、東南アジアそして中国。旅とともに現地の言語を習得していく、その様はたしかに語学学習なのだけれども、本の内容としては語学学習というよりは言語学、そして比較文化論といった感じ。 こう書くと難しい内容な気がするが、著者の力量によって笑いながら、知的好奇心を刺激されながら楽しく気楽に読めた。 最後に印象に残った文章を備忘録として抜粋しておく。 「人間は自分が母語とする言語に意識を強く縛られるだけでなく、自分の出身地の言語観からも自由ではいられないのである」 「どの地域でも、それぞれの歴史的経緯において生じた言語が存在するだけである。方言はどこかで標準語が作られたとき副次的に生じる、政治的・社会的な産物である」 多くの言語に共通する例をパッと思いつく順に挙げると、の1例として、 「「あなた」という二人称を直接用いるのは失礼に感じるので、名前で呼んだり、「おにいさん」「おねえさん」みたいな呼び方をしたり、いろいろ婉曲な方法を編み出している」 これ、少し前にX(twitter)であなたと呼びかけたら相手が失礼だ!と怒り出した、というツイートが議論を呼んでたなあと思い出した。わたしも経験があるので(あなたと呼びかけて怒られた側)、興味深く議論を眺めていたのだけれども、日本語だけの現象ではないのか⋯ああ、でも失礼だと感じているのは日本語を母語とする著者なので、外国語を母語とする人が感じているわけではないのかな。どうなんだろう。気に留めておきましょう。
  • 2026年7月9日
    をんごく (角川書店単行本)
    戦前の大阪、船場の坊に生まれた主人公。結婚して1年足らずで妻を亡くし、黄泉路の妻と会話しようとするところから物語は始まります。 ところが妻は黄泉路へは旅立っておらず、いまだにこの世をさまよっているという。しかも妻は妻でないものに変わっている可能性がある。 では妻は何なのか? 何になってしまったのか? 主人公の周囲のありとあらゆるものを巻き込みながら、収束していく物語。 こんなに綺麗に閉じた物語は久しぶりに読んだな、と感じました。 ホラーですが、とてもじんわりとよかったです。
  • 2026年7月5日
    乱歩と千畝
    乱歩と千畝
    こういう歴史上のもしも話は大好物です。 江戸川乱歩と杉原千畝。 同時代に生きたふたりが実際に交流があったのかどうかはわかりませんが、あったとしたら…として描かれていく物語。 はじまりは真逆の性格のようなふたりが合うのかなと思いつつ、当時の情勢に翻弄されつつも必死に生きていくふたりに魅せられてあっという間に読み終えていました。 ずっとふたりの青春物語を読んでいるようで、楽しかったです。
  • 2026年6月26日
    兇人邸の殺人
    兇人邸の殺人
    剣崎比留子と葉村譲コンビの第三弾。 今回も密室というかクローズドサークルです。ただ、今回は前回までと異なり作中で比留子嬢が 「これは私たち自身が留まることを選ばざるを得ないクローズドサークルなんだよ」 と言うように、手段を選ばなければ脱出することも可能だが、諸事情からその場に留まらざるを得ない、結果、クローズドサークルが完成するという状況です。 そんな中で起こる殺人。 犯人捜しが先か、クローズドサークルからの適切な脱出方法を見つけるのが先か。 登場人物の過去もあり、あれやこれやと考えながら読み進めていくうちに迎えるエンディング。 切ない。最後はめちゃくちゃ切なかったです。 三作の中ではいちばんおもしろかったです。最後に懐かしい人も出てくるので、続編が待ち遠しい。
  • 2026年6月19日
    方舟
    方舟
    んー、なんだか物語にうまく乗れなかった。 遺棄された地下の建築物に閉じ込められることから始まる連続殺人。 って聞くとおもしろそうなんだけど。 わたしはちっとも楽しめなかった。なんでだ。ひたすら続く主人公の推理の独白に、それを通じて他の登場人物のキャラクターが浮かび上がるかといえばそんなこともなく、建物のイメージだけがありありと浮かび上がる。途中までは「そして誰もいなくなった」系の物語かと思って読んでたんですが、早々に違うなと方向転換。犯人はこの二人のどっちかかなー共犯だったらおもしろいなーでも動機がわからん、と考え考え読んでいった結果、犯人はその二人のうちの一人だったのはいいんだけどーどー。その動機が。うん、この動機、最近別の物語で読んだな。 まあ、最後はどんでん返しといえばどんでん返し。だけど、ありがちといえばありがちだし… 舞台設定はおもしろいのに、わたしにとってはなんだか残念な物語でした。
  • 2026年6月12日
    魔眼の匣の殺人
    前作はゾンビ、今回は超能力。超能力絡みのミステリはまあよくあるなー等々思いつつ読みました。 まさか、最後の最後でそんなオチが用意されているとは思わず。 はー。 おもしろかったです。
  • 2026年6月8日
    屍人荘の殺人
    屍人荘の殺人
    原作未読で、映画を配信で見て、ミステリという触れ込みのはずなのに、なんだこれは…ミステリ…? ただのコメディホラーでは??? という感想を友人に話したところ、原作とまったく異なるということが判明。原作を読んでいた友人に勧められたのもあって読んでみたら、ほんとうにぜんぜん違う。 ええええー。 原作はちゃんとミステリ! パーツパーツは同じなのに、肝心なところが抜け落ちたり改変されてたり(しているのは映画のほう)、と原作を読んでいる間、たびたび狐につままれたような気分に。 挙句の果てに、もうこの経験がミステリなのでは⁈(ぜんぜん違う)と思ってしまう始末。 映画を見て腑に落ちなかったことが原作を読んで理解できました。 読みながら映画も見直してみたのですが、え?え?と戸惑いの連続。原作を読んでから映画を見ると、より一層映画の雑さが目につくというか、なんというか⋯いいのか、これで。と思いながら映画を見続けるハメに。 原作、というか小説はおもしろかったです。ほんと映画が残念なだけで⋯
  • 2026年5月24日
    イン・ザ・メガチャーチ
    読んだ。 すごいマーケティングの本だった。 小説の体をなした具体的なマーケティング例の本。 またタイトルも秀逸。タイトルだけを見たらミスリードを誘いそうだけど、物語を読んだ後はこれ以外のタイトルはないというくらいハマっている。 仕掛ける側と仕掛けられる側と、はまってしまった人とはまっていく人と。 それぞれ異なる年齢、立場、場所からまったく交わらないように見えて交差する最後に、凝縮し崩壊していく人たち。 売りたいものに物語をつけて売る、という手法は広告代理店の十八番でそんなに新しい手法なわけではない。でも、その手法が今はこういう風に汎用されているんだよ、というのを如実に見せてくれる。 物語を作る側の朝井リョウがこういった物語を紡いできたことに恐怖を感じる。もう確信犯じゃない、というか、作家としてこの出版不況という世の中で自分の本をどのように売るのかというのを相当研究しているのではないかと思える。 素材としてはありきたりの素材をここまで昇華させた著者の筆力に惜しみない拍手を送りたい。
  • 2026年5月20日
    英米文学のわからない言葉
    ひきつづき金原瑞人。 翻訳ものを読んでいるとどうしてもこれはなんだろう⋯と不思議に思う単語に出会うことが多々ある。だいたい注釈がついていたりするのだが、それでもなんだかよくわからなかったりして想像の翼をはためかせることになる。そんな言葉たちを集めた本書。 そうそうわからなかったーと思う言葉から、わかるその言葉はわたしも手を焼いた(イギリス英語のjumperですよ。日本語訳するとセーターなのよ、イギリス英語のjumperは。ほんと混乱する!)、といった昔馴染の言葉も出てきて読んでいて楽しい限り。 懐かしく思ったのはターキッシュデライト。あんなに実物に出会うまで食べるまで想像を膨らませていたのに⋯! なんでしょうね⋯紅くて砂糖がまぶされていて見た目はキラキラしているわけないのに補正効果でキラキラして見えて⋯なのに食べたら⋯ 昔よく売っていたひとつひとつがオブラートに包まれて大袋に入れられて売られていたカラフルなゼリー(さしておいしくない)。あれを思い出しました。あのがっかり感。はー。 最後に付録として著者が訳したもののなかからお勧めの本が何冊か紹介されているのも思わぬプレゼントのようで嬉しい。その中から読みたくなった本がまた幾冊かあったり。 そんなこんなも含めて楽しい1冊でした。 ただ、本書を読んでわからなかった言葉がひとつ。 『粘土の風呂敷』 「さて次は、その清書した粘土の手紙を粘土の風呂敷で包んで、その風呂敷が柔らかいうちに、円筒形の印章を押しつけて転がす。(中略)なかの手紙を読むときには、その粘土の風呂敷を壊すしかない。」本書の『封蝋、印章』の項に金原瑞人が以前読んだ話として紹介されている。残念なことに何で読んだのかは本人も覚えてない。 粘土の手紙はわかる、この文章の前にメソポタミアの話がされているので、いわゆる粘土板に刻まれた手紙のことだ、ただ、粘土の風呂敷⋯しかも読むときにはその風呂敷を壊さなくてはいけない。中の粘土の手紙もいっしょに壊れてしまいはしないか。 気になる。粘土の風呂敷。
  • 2026年5月14日
    日本文学の翻訳者たち
    20年くらい前イギリスに住んでいたとき、本屋に行って見つけられる日本人の本は芥川龍之介、夏目漱石、三島由紀夫、最も新しくて村上春樹、という状態で寂しく感じていました。なので最近の海外における日本文学ブーム(と言っていいのかな)はとても嬉しく感じます。そんなところに、この「日本文学の翻訳者たち」が(わたし的に)満を持して目の前に現れて、もうこれは読むしかないでしょう。 今までも外国語から日本語への翻訳者の話はたくさんあるけれど、逆はなかった⋯! 興味深く読みました。 好きな作品を勝手に訳すとか、漢字・ひらがな・カタカナに苦戦とかみなさん共通な点もあれば、それぞれ(インタビュアーの金原瑞人含め)の苦労、喜び、裏話が垣間見えて、ああ言語ああ言語としみじみと読み耽りました。 以前、「言語を学ぶことは文化を学ぶこと」と言われたことがあるのですが、翻訳という作業はまさしくそれだな、と。 翻訳・通訳業務はAIに取って代わられると言われてるけど、この本を読む限りではまだそれは遠い未来のような気がします。 あと多和田葉子と古川日出男の名前をあげる翻訳者が多いのも印象的でした。多和田葉子は読むたびにこれをどうやって他言語に⋯!と唸ってしまうのですが、いつか他の言語に訳された多和田葉子を読んでみたいなあと思います。
  • 2026年5月5日
    口の立つやつが勝つってことでいいのか
    なんだか、おもしろい本だった。 タイトルに惹かれて読んではみたものの、なんと言ったらいいのか⋯中身はだいぶ違う。 でも、なんだか、おもしろい。 さくさく読んで、読んでいると気分が楽になる。 著者の他の本も読んでみたくなった。
  • 2026年4月30日
    今日も、ちゃ舞台の上でおどる
    この本を読んでいる間ずっと、須賀敦子の「きっちり足に合った靴さえあれば、自分はどこまでも歩いていけるはずだ」という言葉が脳裏をめぐっていた。 どうしてだろう。 坂口涼太郎の文章は須賀敦子とは似ても似つかないし、共通している点といえば両者とも書いたものが「エッセイ」というジャンルに振り分けられる、ということぐらいしか思いつかない。 自分はといえば合った靴を履いているのかそうではないのかもわからないし、いつもぬかるみの中をのしのしと歩いているような気がする。どこまでも歩いていける、というより、どこまでも歩いていかなければならない、という強制じみた感覚に捕らわれている。 ぬかるみの中に立ちながら、よく泣きよく笑う坂口涼太郎の文章を読んでいると、ふっと足下が軽くなるような瞬間がある。そのとき見上げれば、著者の坂口涼太郎自身が「きっちり足に合った靴」を履いてちゃぶ台の上でくるくると踊って、そのままちゃぶ台ごと「どこまでも」キラキラと飛んでいってしまうという幻覚を見た。(「歩いて」ではないところ坂口涼太郎っぽいなと思う」) 「どこまでも歩いていけるはずだ」という軽やかさを坂口涼太郎の文章が体現していて、読んでいるとそのままふっと自分もどこまでも行けてしまう気がする。というより、行ってしまっていい気がする。坂口涼太郎のように、くるくると踊りながら行ってしまおう。靴じゃないけど、坂口涼太郎の文章をお供にどこまでも歩いて自分のすきなところに行けるよ。 途中、途中に挟まれる短歌も良く、 「いきているときにのこしたことばらを読みふけっては星の目をみる」 読書という行為をとても素敵に表現しているような気がしてとても気に入っている。短歌集を出してくれたらいいのにな、と思う。
  • 2026年4月10日
    田中角栄とその時代 駕籠に乗る人 担ぐ人 (PHP文庫)
    今も昔も人は変わらない。 気にかけてもらえれば嬉しいし、助けてもらえば感謝する。 そういった人の機微をどのように使うか。 それをうまく使ってのし上がっていったのが田中角栄という人物なのだと知らしめる1冊。大本の底本は1988年出版なので、げんなりする描写も多々ありますが、まあ当時はそういう時代だったのだ。不満もあるけど今はまだマシだなあ、などと思いました。
読み込み中...