

灰
@okonomiyaki
読むのがおそい
- 2026年1月23日
- 2026年1月12日
考察する若者たち三宅香帆読み終わったいまや、メディアでひっぱりだこの三宅香帆さん。それだけ世間が必要としている人物は、はたしてどんな事を考えているのか? 本書では批評と考察を彼女なりの定義の仕方で対比的に捉えている。すなわち、批評とは人それぞれが思い思いの所感を述べることなので統一的な解を求めない。対して考察は作者の投げかけた問いを解く道筋を明かしていく、ということになる。前者はインターネット的、後者はプラットフォーム的に置き換えられる。ここでいうプラットフォーム的というのは、アルゴリズムがはさまって、最適解に慣れ親しんだ世界のことを指している。 べつに三宅氏はプラットフォーム的世界に警鐘を鳴らしているわけでもなく、批判しているわけでもない。批評を心から愛する彼女がこの本で言っているのは、乱暴にまとめるとこういうことだと思う。 「 最短ルートじゃなくったって、アプリが示していないまわり道もいいんじゃない? もしかしたら雑草かもだけど、でも素敵な花に出会うかもよ 」 - 2026年1月1日
横しぐれ丸谷才一読み終わったなんとなくとっておいた(もったいなくて)のを、記念すべき新年の1冊目として読んだ。思わず、うぅむ、こ、これは…と読んでしまう本作は間違いなく丸谷才一先生の代表作としてかぞえたい。 丸谷先生曰く、グレアム・グリーンの自伝に、グリーンの父親とオスカー・ワイルドにまつわる逸話があったそうだ。そこに感銘を受け、これは小説になる!と思って書かれたのが『横しぐれ』なのである。 そしてジョイスやナボコフの影響もあり、文学から文学を作る書き方をここでは目指したそうである。 国文学者である「わたし」は、父と父の友人の黒川先生(わたしの恩師)が愛媛の松山に旅行に行った際に、不思議な乞食坊主と酒を酌み交わしたエピソードを聞く。つまり『横しぐれ』の「わたし」はグレアム・グリーンで、その父(+黒川先生)がオスカー・ワイルドにあたる乞食坊主に松山で出会う、というのがこの物語のフレームになるわけである。 この乞食坊主が本作ではある著名な俳人として疑われ、「横しぐれ」というキーワードをもとに、文学探偵とも言うべき「わたし」が文献を遡り、推理を深めていく物語なのだ。 この文献へのあたり方と、考察がもうなんというかスリリングかつ文学者丸谷才一としての趣味的に耽溺しているさまが垣間見えるような気がして、ひじょうに心地よい。 この「わたし」の一連の文学的推理を追体験することを通して、われわれは日本文学史をあらためてなぞらされるのだ。 これが文学から文学を作るということなのだろう。
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