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地下室の手記(新潮文庫)ドストエフスキー,江川卓読み終わった合理性だけを求めてるわけではないような気もするけど、僕は最近投げやりになって合理的になることを開き直ることを覚えた。例えば、好きな勉強しかしたくないと思っておきながら企業に媚びを売るために資格勉強をするなど。でもこれをすると、逆に謎の安心感が生まれるのもわかってきた。つまり自分の好きに生きたいとか、自分が地下にいたいとか思うのは逆に自分の首を絞めてるということ。その謎の安心感は勉強こそ自分ひとりだからいいけど、飲み会で調子を合わせないといけないとかだとだいぶきつい。合理性は「外的評価」に適応する装置だが、対人関係は「リアルタイムで存在そのもの」が問われる領域だからなのではないか。勉強は自己完結で済む。人間関係はそれだけでは済まない。 地下室の手記の主人公はだいぶ不器用だと思ったし、誠実で素直だと思った。でもこういう素晴らしく痛々しく綺麗な人ほど生きづらいのは確かだとも思った。読者(諸君)のことも、友人のことも、自分自身のことも批判している姿は、正直で素直で、痛々しかった。 でも「人間は本当のことを知るのが怖いから、目的が目的になってる」というのはあんまり分からなかった。リーザのことも、あそこまで深い関係になれたら幸せになれたのではとも思うけど、彼にとってはそういうことでは無いのかもしれない。 それは、あの男にとって重要なのは関係そのものではなく関係を支配できるかどうかだからなのではないか。リーザは彼にとって愛の対象ではなく自己証明の装置になってしまった。だから最後に壊したのかな。 過剰な自意識で身動きが取れなくなるのは、言い換えると自由の奴隷とも言えるかもしれない。正直いうと僕はこの主人公のような自意識は高校の時が多かった。でも僕は高校を卒業したあたりから自由になったと思っていたけど、自由で身動きが取れなくなるということを念頭に置けば僕は高校の時の方が自由だったのかもしれない。これは社会的なものではなく個人的なものだからといえば辻褄が合う。僕の高校時代は自意識が強く、苦しいが、可能性は開いている状態。でも今は合理的に動けるが、ある種の「型」に入っている状態。可能性としての自由と安定としての自由の違いなのではないか。地下室の男は前者に囚われて壊れ、僕は後者に寄って今は安定している。
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