ヴィヴァルディと私

ヴィヴァルディと私
ヴィヴァルディと私
ティツィアーノ・スカルパ
中山エツコ
河出書房新社
2026年5月19日
3件の記録
  • aru
    @okiotashika2
    2026年6月18日
    !
  • mayu
    mayu
    @yatsu_books
    2026年6月12日
    格子越しにしか世界を見ることが許されなかった、18世紀ヴェネツィアの「ピエタ養育院」の少女たち。 演奏中だけは音として存在を許され、一旦幕が下りれば沈黙に戻る。名前すら持てない彼女たちは、施設名を名字として名乗っていた。 ”ピエタのアンナ”、”ピエタのマリア”と。 主人公のチェチリアは、ピエタ養育院の壁の外を一度も知らずに育った。石造りの冷たい廊下、稽古場、そして格子、それが彼女の人生のすべてだった。 でも、ヴァイオリンを手にした瞬間だけは違う。 その音は純粋で、聴く者すべての魂を震わせた。 まるで音楽だけが、彼女に「存在すること」を許しているかのように。 母への手紙という形で進んでいく、ティツィアーノ・スカルパの小説『ヴィヴァルディと私』(映画の邦題に合わせて『スターバト・マーテル』から改題) 存在が不確かな母親からの生と、異形の存在が拐かす死との狭間を行き来するように、言葉と音を織り出す日々。 そんな原作をもとに公開された映画もまた、抑圧と解放をテーマにしながらも、その声は決して大きくなく、静かに、でも確実に見る者の胸をゆさぶる作品でした。 映画の原題「PRIMAVERA」(プリマヴェーラ)はイタリア語で「春」を意味するそう。 まさにヴィヴァルディの「四季」の第1曲「春」そのものです。あらゆる束縛から逃れ、最後に自分の力で自由を手に入れたチェチリアの「春」を表しているように。
    ヴィヴァルディと私
  • うゆ
    うゆ
    @otameshi_830
    2026年6月3日
    音楽にしろ宗教にしろ“わたし”を捨て去ることに躍起になるものだが、それは肉を持った具体性に満ち満ちた生を生きているものの特権であり傲慢ですらあるのかもしれない。それらを剥奪され抽象的存在として、“わたし”を“わたし”として認識する土台が確立されていない生もあるのだと。“わたし”を“わたし”として獲得しようと飢え彷徨う魂の遍歴を読む。延々と続く少女の独白、会ったこともない母への手紙、死との会話…その文体に慣れるのに少し時間がかかってしまった。思えば一人称の小説を読むのは久しぶりだったかもしれない。どうして慣れるのに時間がかかったか、少し辛くなってきて小休止を挟みながら読んだかというと、読んでいて視界の悪いものすごく狭いところに閉じ籠められている感じがしたからだ。改めて一人称小説の効果を知ることとなったがこの作品は多分意図してそれを強めているのだと思う。それこそチェチリアの置かれた状況であり彼女の心の在りようだから。読者はこの文体によってそれを追体験することができる。しんどいけど…。 女とは、生とは、死とは、誕生とは、音楽とは、言葉とは…様々な警句にも満ちてある種哲学書のようでもあった。音楽に携わる人、言葉や哲学に興味のある人にはそういう意味でもとても面白いと思う。 映画化にあわせてのタイトルらしいが当たり前だけど断然原題の方が良い。スターバト・マーテル。悲しみの聖母。 表紙も前の方が良いと思う。 この作品をどう映像化したのか…怖いもの見たさ半分ですが観てみたいなと思います! 【ラストに触れます】 祝福された音楽の呪いに痛みと歓びをもって囚われる人々の話にはなんども触れてきたが、逆パターンは初めてかも。 一瞬海に身を投げたのか?!と思ってしまったがこれは違うよね(^.^; 具体性を持った“わたし”として生きるために新天地へ向かう希望に拓かれた終わりよね。うん。どうやって生計を立てるのか知りませんが… ヴィヴァルディが結構勝手なやつでそれがまた音楽家の業をみせてくれて良かった。 またしっかりと読み返したいです。
    ヴィヴァルディと私
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