発声と身体のレッスン

発声と身体のレッスン
発声と身体のレッスン
鴻上尚史
筑摩書房
2012年12月12日
8件の記録
  • 発声のレッスンの頃からずっと向井秀徳だったのだけど、身体のレッスンになったら向井秀徳でしかなかった。新宿都庁がそびえ立つ、朝焼け、いらだち、まばたき、してるあいまにあいまいに、真昼間、うしろ向きでぶらぶら歩き、だんびら、振り回す、DANBIRA、振り回す、健康のためにぶりぶり回す。
  • ストレッチとは、あなたの「からだ」とあなたの“対話”です。あなたの「からだ」は毎日、コンディションが違います。ストレッチは、あなたがあなたの「からだ」に、「今日の具合はどうですか?」と問いかけるものなのです。それを、中学や高校の時にやったように「いっち、に〜、さん、し〜」と円陣を組みながら、全員でやっては、まったく意味がないどころか、害悪になります。(p.264) まじでそれな〜、である。著者とハグをした。どうして一律の準備運動をせねばならんのか、それが最もよいことと考えられているのか、まったくわからなかったのを思い出した。実際、一流選手は自分のスタイルでストレッチなりなんなりをやっている。それが世間ではルーティンと呼ばれるもので、すごいすごいともてはやされもする。しかし子どもに対する指導では、それは忌避される。みんなとちがうことをやっていると怒られるし、そもそもちがうことをできないようにコントロールされる。この矛盾が理解できなかったしいまもできないが、やはりこれも嫉妬のなせるわざなのかもしれない。自分ができないこと(=みんなとちがうことをやる)をやっている、やろうとしている他者がうらやましくて邪魔をする。しかしあまりにも遠くにいってしまうと、大谷翔平のようになんでも「すごいすごい」になる。腹がたってきた。この本、記憶の蓋をこじあけてくる。
  • 「体の外側へ」という方向は、言ってみれば、「からだ」をどんどん意識していくことですが、「体の内側へ」というのは、「からだ」をどんどん忘れていく方向です。(p.207) 私達は、嫌な仕事や嫌な人に会う時に、無意識に体に力を入れます。(中略)。それは、決して、悪いことではありません。(中略)。ですが、問題は、その緊張が体に定着してしまうことなのです。(p.210) 本筋とは関係ないけど、著者は「夜、街をうろうろするのが好きな若い男性」(p.213)と描写されるような、ヤンキー風のだらしない姿勢をとっている人物をよく悪い例として出す。たぶん好きなんだと思う。
  • 「体の外側へ」という意識が高い人は、「どのようにできてないか?」を理解することができるのです。体の意識の低い人は、ただ、「できてない」と漠然と思うだけなのです。(p.206) 今朝は父親と恒例のキャッチボールをして、ピッチング練習もしたのでなおさらこの言及に意識が向く。ピッチングの場合、ボールの軌道も身体の延長線上に置き意識=イメージできるようになる必要がある。今日の直球は悪くなかった。
  • よく分からず、なんとなくあいまいなイメージで理解して言葉を言わないでください。それは、クセになります。感情やイメージがあいまいなまま、一生懸命、セリフを言うことが当たり前になってしまうのです。(p.141) 発声にかぎらず、イメージ≒意味や意義の理解がおぼつかないまま反復練習をしてしまうことによる逆効果はよくある。おもしろいのは、指導されてる側のみならず指導してる側も「なんでやってるのかわからん」状態で他者にやらせてることがままあること。
  • たまに日常でも、怒りたいんだけど自信がないような人が、声を前ではなく上に上げて叫んでいる風景に出会います。目の前に人がいるのに、声は、その人に行かず、叫んでいる本人の頭の上に抜けていく声です。(p.103) ここまで「声」が見える境地、凄まじい......。
  • 代わりに読んでほしいという依頼をうけたので代わりに読みはじめたが、サイゼリヤなので声が出せない。しかし「正しい声」とはよく響くとか大きいとかそういうことではなく、自分の出したいと思った声をそのとおりに出せているか、ということのようで、つまり「いまこのとき私にとっての正しい声とはなんなのか」を考えることからはじまっている。おそらく私はこの本を、自分のサッカーの経験とからめて読むことになる、そんな予感がしている。
  • https://sapphicalien.hatenablog.com/entry/2025/05/04/164304
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved