柳田国男と民俗学の近代

9件の記録
- JUMPEI AMANO@Amanong22025年7月10日読み終わった就寝前読書お風呂読書第四章「農の心の現在」というタイトルが好きだった。最終節に向けてアエノコトの「現在」が整理されていく(というかイメージが拡散、乱反射していく)。〈アエノコトとは一体何だったのか〉(313頁)、そして著者はその現在を示すことで〈何に抗するのか〉(314頁)。勢いで読み切った。 終章も勢いがある。〈あえて誤解を恐れずにいおう。私は調査というものにある違和感を禁じ得ない〉(332頁)。〈調査地を語る特権的なポジションに安住してきた調査地たちは、いま、自らが拠って立つ砂上の楼閣のあやうさに目を見開かねばなるまい〉(334頁)。刺激的というか挑発的というか、著者が本当に苛立っている感じが伝わってきて、おお〜っとなった。自分の専門でも何でもないのでちゃんと読めた自信はないけど、頭の隅にこの著者の苛々をすまわせて、折に触れて取り出し考えてみたいと思う。 最後に参院選前なので(?)以下を引用しておく。本編のネタバレにもならないと思うので。 〈心地好い二項対立を求めてはならない。それは人に、自身が世界を理解し得ているのではないか、と誤解させることしばしばである。だが、その図式の単純さはその人の理解能力の貧困さそのものであって、世界そのものがその人の理解能力の貧困さに相応しいほど単純であるというのは、幸福なる無知に過ぎない。〉(317頁]
- JUMPEI AMANO@Amanong22025年7月9日まだ読んでるお風呂読書第四章二節まで読む。「奥能登のあえのこと保存会」と原田正彰について。 〈「遺制社会」奥能登に「残存」した「素朴な行事」を伝承する人々とその実践は、しかしながら決して「素朴」や「遺制」といった概念で括りきれるものではない。それは、調査や読書といった技法を駆使して儀礼象徴を操作する知識人かもしれない。あるいは文化財制度や市町村史編纂といった機構を利用して自ら創出した儀礼像を波及させる政治力を持っているかもしれない。〉(271頁) ゲラやら原稿読みがまた始まったので読書ペースが落ちそう...
- JUMPEI AMANO@Amanong22025年7月7日まだ読んでるお風呂読書〈ある民俗の写真があるということは決して単純なことではない。一枚の写真を通して眼にすることのできる被写体のこちら側には、それを撮影したカメラがあり、それを操作した撮影者がいる。そこには写真機やフィルムを所有する資本の存在があり、写真という技法を操作する知の存在があり、その資本や知を運用する主体、民俗を被写体とするまなざしが存在する。そして、そのまなざしの向こう側には、まなざしに晒されることを積極的に受容する、あるいは拒絶することのできない身体が存在する。[...]写真の解読とは、その対象への透明性がどれほど自然化されていようとも、その画面に写らなかった「こちら側」の存在を認識することからしか出発できないはずだ。〉(185-186頁) 第三章二節まで読む。写真と民俗、柳田と写真、この章も面白そう。
- JUMPEI AMANO@Amanong22025年7月7日まだ読んでる就寝前読書〈柳田がどこまで自覚的だったにしろ、民俗学確立期においてヴィジュアルが捨象されたことは、きわめて重大だったといわなければなるまい。戦後、すなわち民俗学が一旦確立した後に、柳田が改めて写真の必要性を説いたことはきわめて示唆的だ。/いずれにしろ、柳田をはじめとする確立期の民俗学徒によって産出されたテクスト、その提示する民俗像が、いかなるメディア環境に構築されたのかという問題は、そのテクストを利用する者にとって極めて重要な問題領域といえるだろう。〉(241頁) 第三章読み終わる。野本家のアエノコト、芳賀日出男のアエノコト。読み解きが面白い。
- JUMPEI AMANO@Amanong22025年7月6日まだ読んでる就寝前読書お風呂読書第二章読み終わる。 〈その結論はきわめてシンプルに要約される。調査が儀礼を解明したのではない。柳田の言葉に導かれた調査が柳田の言葉を追認したのだ、と。〉(159頁) 〈柳田の紡ぎ出した稲作民族の「物語」〉(163頁)の行方や如何に。
- JUMPEI AMANO@Amanong22025年7月5日まだ読んでるお風呂読書第二章二節まで読む。 〈アエノコト。文字で書けば「饗の事」。奥能登に伝わる古風な農耕儀礼。収穫後に主人が田の神を自家に迎え入れ、御膳と風呂でもてなし、翌年農耕開始前に同様の行事を以て田の神を田に送り出す行事。御膳と風呂は神人共食、神人合一の境地を具現。田の神は山の神であり根源的には祖霊に帰一。〉 続く一文が、この論考の面白さ。 〈これが柳田国男の創出した儀礼像である。〉(124頁) 盛り上がってきた。