戦時から目覚めよ

9件の記録
1129_ymoi@1129_ymoi2026年4月9日読み終わったこの本の書かれた頃より、悪化し退化していると言わざるを得ない。 進歩的に危機を転換し、推進力にしていくような動きはなく、ただ、全てを諦めてしまったような正気ではない独裁者たちの振る舞いに、誰も本気で対処できない。 沈黙と静観によって、自分たちの手が汚れていくけれど、それをSNSで声をあげデモに参加することで、罪悪感を亡き者にしている。 そうした小市民的回避行動を嘲笑するのではなくて、本当にそれでいいのか?と問うてくる本。
1129_ymoi@1129_ymoi2026年3月31日読んでる「倫理的に進歩しているかどうかを測る最も確実な目安のひとつは、特定のドグマティズム(注:独断主義または教条主義)の台頭である。正常な倫理観が保たれている国では、たとえばレイプや拷問に関して、それが許容できるか否か、許容できるとしたらどのような場合か、などが議論されることはない。一般市民はレイプや拷問が問題外であると「独断的に」受け入れ、その種の行為を提唱する者は常軌を逸しているとみなされる。ゆえに、レイプについての議論(「合法的レイプ」は存在するのか?)が始まるか、あるいは拷問が黙認されるだけでなく公に行われることが、倫理観の衰退を示す明白な兆候となる。」 (p.174。) 外国人政策(というもの自体よくわからない概念だと思う)、あるいはヘイトスピーチに関する国民の意見が、まさにこの段階にあるように感じる。平然と経済合理性や治安などを口実にありとあらゆる暴言や差別が表立って述べられるようになっている。 国際法に関しての認識も同様で、大国の論理に巻かれることが倫理的正しさのように誤解されている。 (追記) 戦争や防衛あるいは憲法についても同じだと思う。 それらを議論の俎上に上げることは、やむ負えないという空気がある。十年前はどうだっただろう?国際情勢の緊迫感は今に始まった事ではない。冷戦の時代もテロの時代も乗り越えた。その実績についてもよく考えるべきだと思う。
1129_ymoi@1129_ymoi2026年3月9日まだ読んでるしかし今日、もっと奇妙なことが起こっている。新たなタイプの政治指導者が現れたのだ。アレンカ・ジュパンチッチ著『Let Them Rot(腐らせておけ)」から引用すると、その政治指導者は—— 「まるで基本的な道徳観念あるいは性格の違い、具体的に言うなら、公に犯罪行為を行える「勇気」あるいは「根性」があることの証明であるかのように、秘密裏にではなく公に犯罪を行うことを誇りに思っている。だが、国家の法律がときに要求する「偽善」を避けることで果敢に法律に逆らっているように見えても、その行為は実際、国家権力の忌まわしい別の側面を表しているにすぎない。それ以外の何ものでもないのだ。彼らは自分たちの法律に「違反して」いる。だからこそ権力を握っているときでさえ、まるで反対の立場にあるがごとく権力者を「ディープステート(注:闇の支配層。政府を密かに操ろうとしている軍・諜報機関・政府関係者の存在を主張する、陰謀論に基づいた用語)」などと刺弾し、反逆しているかのように振る舞い続けるのである。」 (p.137-138。) 憲法や法律は、権力、暴力、そして暴政を防ぐためにある、ということを深く信じなければならない。 そしてそれは、自律的な機能ではなく、擁護し補強し続けなければならない手のかかるものだと、認識しなくてはならない。
しらすアイス@shirasu_aisu2026年3月3日読み終わった主なトピックはロシア・ウクライナ間の戦争。ロシアによる侵略を決して許さず、ウクライナを全力で支援すべき、という立場を明確にした上で、「西側自由主義諸国」やリベラル左翼の問題点をズバズバと指摘する。 正しいように聞こえることを口では言っていても、本心では「世界はこのままでいい」と思っており、自分の生活までもがガラッと変わってしまうことを望んではいないじゃないか。気候変動対策や世界平和を本気で実現するために、みずからの一部を捨ててしまう覚悟が私たちはできているのかい、と。 過激だけど、「それはそう」と思わされるところも多々あり。あと、文章のドライブ感がジジェクのトーク映像で見た印象そのまま、という感じだった。

ジクロロ@jirowcrew2025年11月12日ちょっと開いた「未来の大惨事を防ぐためには。その流れを止めるために行動を起こすしかない。そうしてみると、かつてセックス・ピストルズが歌った「ノー・フューチャー(未来はない)」はべつのいみで解釈できる。より深いレベルでは、この「ノー・フューチャー」は変化が不可能なことを指しているのではなく、破滅的な「未来」の縛りを断ち切ることによって「新たな何かが生まれる」スペースを切り開くべきだと訴えているのだ。」 その延長線上に「破滅」がちらつくとき、ただ茫然とし、その実感に慣れるのを待つよりも、「破滅」が見えているからこそ、その破滅の消失点、その吸引力から逃れようと抗うこと、そういった身体的な動きにより、新たな空間と可能性が生まれるということ。未来というものは、時間よりも空間の意味合いの方が強いのではという気づき。 歯を食いしばるより、少なくとも舌を出す方が、少なくとも新たな空間はわずかながら開けているはず。 未来はないわけではない。 「未来がない」という実感がなければ、またはその実感に不感症を装って通そうとすれば、本当に未来はなくなってしまうということ。

