抵抗する動物たち
11件の記録
🌜🫖@gn8tea2026年3月12日読んでる借りてきた「ビーガンは倫理的理由から動物搾取への加担を拒む人々。動物性の食品や衣服、動物を使う娯楽などに金を投じる行為は、動物搾取への加担になるので、ビーガンはそれらを拒む。その思想と実践をビーガニズム(脱搾取)という。他方、菜食者の中には脱搾取の考え方を持たない人々や食以外の面における動物搾取を避けない人々もいるので、ビーガンからは区別される。ビーガンはみな菜食者であるが、菜食者がみなビーガンであるわけではない。」 p239 「菜食者がみなビーガンであるわけではない」のは理解するが、veganismを支持し、生活のあらゆる側面でできる範囲で脱搾取を意識した選択をしていても、完全な菜食者にはなれていない(外食等で乳製品等を完全に避けられてはいないが、8〜9割プラントベースな食事を5年ほどしている)わたしは、veganとは言えないし、かと言ってベジタリアンのつもりでもなく、何かいい表現があればいいのにと思っている。 動物園も水族館も動物カフェも行かないし、動物性素材の衣服も避け(どうしても避けられないときは中古を買う)、スキンケアなども体質に合うならばなるべくvegan処方のもので……と思っていて、「ベジタリアン」や「フレキシタリアン」だと食事に関してだけだから微妙かな……など。シンプルに「脱搾取を目指している」でいいか。
🌜🫖@gn8tea2026年3月12日「19世紀から20世紀のニューヨークにみられたように、無秩序の言説はレトリックを動員し、警察官を英雄と讃える。彼らはか弱い女性と子どもたちを、路上に闊歩する「狂える獣」から守る者だというわけである。動物の抵抗者たちに対する人々の反応を鑑みるに、この反逆者たちは錯綜する言説闘争の中心に位置すると分かる。そこではジェンダー化・人種差別・階級差別・能力差別・嘲笑を通して権力が再主張される。行為者性の理解を拡張し、人間以外の者たちを行為主体と認めることは、今日の政治活動に特異な難題を突き付ける──動物たちとの連帯行動とは、何を意味するのか。」 p239
🌜🫖@gn8tea2026年3月11日読んでる借りてきた「情感ある生きもののうち、監禁され、屠殺され、実験にかけられ、娯楽のために危害を加えられることに同意する者はいない。動物の肉に関していわれる《放牧》《持続可能》《有機》などのレトリックは、一部の消費者の罪悪感を和らげるおとぎ話であり、そのラベルにはほとんど意味はない。それによって一部の動物はわずかに広い空間や良質な餌を与えられるが、かれらはなお生を縮められ、従来と同じ方法で殺される。」 p232
🌜🫖@gn8tea2026年2月26日読んでる借りてきた「逃げた動物たちを特別と評することが問題になるのは、逃げない動物たちの生きる価値が劣るとほのめかす時である。同じく、個々の動物を何らかのラベル(やさしい、賢い、強い、勇気がある、など)で括ることは、同じカテゴリーに入らない動物たちを切り捨てる形で行なわないよう注意しなければならない。逃げなかった動物たちの価値が劣るようにほのめかす行為は、複数の面で大きな問題がある。一つ挙げれば、それは能力にもとづいて命を優先する態度であり、一種の能力差別となる。多くの動物たちはしばしば品種改変が原因で傷害を負っており、脱走による抵抗は特に困難を伴うことがある。」 p216
🌜🫖@gn8tea2026年2月21日読んでる借りてきた「多様な意識や意図性が無数の種に具わっていることが示されてきたが、煎じ詰めれば、動物たちが意図性を経験しているか、意図性のもとに行動しているかは、かれらの内在的価値とはほとんど関係しない。意図性をめぐる問いは動物の抵抗を概念化する一つの切り口でしかない。と同時に私たちは、多くの他の動物たちが反省的な内面経験を伴った意図のもとに行動している可能性を、人間中心主義の観点から否定してはならない。」 p158 とても大切な部分。命の重み、尊厳、価値は、その能力によって決まるものではない。と同時に、人間中心主義(さらにいえば健常者中心主義)の観点で、他者の能力を測ることもまた暴力であり、許されない。
🌜🫖@gn8tea2026年2月18日読んでる借りてきた「虎の抵抗は何もないところからは生じない。グローバル資本主義と、それが必然的に深めた貧困と絶望のせいで、人間とアムールトラの力は均衡を失った。一部の虎は複数の銃弾に苦しんだあげく人間を襲う。ここに疑問の余地はない。動物たちが抵抗する理由は、現代社会による自然の撹乱、そして標的の人間に対する強い裁きの感覚に根差している。」 p134 先住民は過去数世紀のあいだ虎を崇め、共生的関係にあったという。現代社会は人間と虎の関係を乱し、希薄で緊張したものへと変えてしまった。貧困の蔓延から虎の密猟で生計を立てる者が現れたのも、政治、資本主義が原因と言える。 3章 動物たちの抵抗理由 を読みながら、昨年話題になった熊出没のことを思い出していた。かれらもまた被害者だ。
🌜🫖@gn8tea2026年2月17日読んでる借りてきた「飼い馴らしは人類の進歩を可能にした、という支配的な言説とは裏腹に、動物たちの捕獲・拘束・繁殖は平和な社会の創出に資さなかった。むしろ飼い馴らしが生んだのは強権的なエリート主義社会であり、それは歴史上、数々の大規模な戦争や暴力を助長してきた。飼い馴らした動物たちを搾取・拘束・群飼・殺害する営為が原因で、早い時期に部族間の対立や紛争が生じ、後に階級分化、広汎な暴力、そして十六世紀に始まるグローバル資本主義と植民地主義の台頭が起こった。ヨーロッパの植民地化を支えたのは、軍備増強のための強制的な動物労働、糧食生産のための動物屠殺、ならびに土地収奪の口実となる動物放牧の土地需要だった。」 p91 封建社会から資本主義体制へと移行する際の本源的蓄積について語られるとき、人間以外の動物に対する暴力や搾取には触れられないことが多いと気がついた。動物の「強制労働は資本主義の誕生と不可分かつそれを可能にしたもの」p106であること、戦争でも利用されたこと……。 人間以外の動物が置かれている状況、かれらの抵抗、すべてがマイノリティが経験してきた差別、暴力と重なる。種が違うというだけで、これが許されていることがいまだに信じられない。 脱人間中心主義な世界が、わたしが生きている間に実現することはないと思う。地球上のあらゆる場所に境界線が引かれ、柵や壁が設けられ、土はアスファルトやコンクリートで固められ、森は端に追いやられ……そんな人間が隅々まで支配する世界ではなく、地球に生きるいち生物として、他の動植物と関わりあい共生する世界を経験したかった。わたしは他の動植物と対等な立場でコミュニケーションをとる方法を知らない。無条件に生命を養ってきたはずの地球で、土地にも水にも食料にも自由にアクセスできない。生態系はひとつの命のように種を超えて助け合い共生してきたのに、わたしはその営みから切り離されている。悲しい。これは進歩でも豊かさでもない。

積読本を減らしたい@tsundoku-herasu2026年1月16日かつて読んだグローバル資本主義時代の種を超えた連帯 「世界では食用だけで1日につき1億5000万頭、1年におよそ700億頭の陸生動物が殺されるうえ、養殖される数百億(370億〜1200億)の魚介類、数兆の自由な魚介類がそれに加わる」






